桃山晴衣の音の足跡(15)小唄とアナキズム/秋山清との出会い

 安田武が『思想の科学』で「桃山晴慧論」を書いた翌年の1964年、尾崎秀樹が編集人を努める『大衆文学研究』という雑誌の第九号に「座談会・文弥新春芸談」と題した記事が掲載されている。会のメンバーには岡本文弥添田知道、虫明亜呂麿、安田武、大竹延(司会)と紅一点、25才の桃山晴衣が並んでいる。

(左から桃山晴衣添田知道岡本文弥
またこの雑誌には「叛骨の鉱脈」と題する特集が組まれており、そこに秋山清加太こうじといった人たちも寄稿していることから、「初期於晴会」のメンバーがこのあたりから桃山を取り囲むようになったものと思われる。安田武添田知道岡本文弥については先に述べたが、この「初期於晴会」のメンバーで桃山が「人生の師」としてずっと信頼を寄せてきた人たちの一人に詩人の秋山清氏がいる。

 「私は世間に出た最初から、二通りの先生に恵まれたと思う。たえず社会というものを見通し、それにつながっている自分の位置するところを認識させてくれた、徳川義親。芸能と、江戸の感性を伝えてくれた英十三。秋山清は、前者につらなる先達である」という桃山は、秋山氏が若かった彼女と同等に向き合ってくれ、行動、発言、身の処し方に厳しい目を光らせ、つねに意見や反論をあたえてくれたという。


【1975年12月14日 秋山清出版記念会で:発起人に伊藤信吉、中野重治埴谷雄高佐多稲子、大沢正道らが並んだこの会で、秋山清は桃山に演奏を頼んだ。このとき、「男とか女とか関係なく、友だちとして付き合える大切な人だ」と秋山氏が自分のことを紹介してくれたのがグンと胸に応え、嬉しかったと、桃山はいっている】
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 秋山清氏は桃山との出会いを以下のように書いている。長くなるが全文を掲載する。

 「戦後のあるとき、というのは『アナキズムの会』といった風の名がつけられてはいたが少なくともそれ以上のものではなく、次の人らが集まったりして、辻潤や和田久太郎などについて、自分らの知るところを語ったりしたその場所に三一書房の、一隅を借りて、月に一回か二回あつまっていた。
 その場所とともに思い出す人は多田道太郎安田武鶴見俊輔など、大沢正道、木原道など私の友だちもいた。毎月一回などという固い集まりではなく、次は誰が、何を、しゃべる、というほどの堅い勉強会でもなかったが、明治の大逆事件や大正のアナキズム系テロリストを語りもするようなもので、世話役には三一書房の正木さんが加わって、戦後ニッポンのアナキズムの活動には特に聞き手も集まったかと記憶する。
 ある日のこと、その日の集会も終わろうとするとき、和服の若い女がどこからか来て、入り口に立ち、あとでその人が小唄の桃山晴衣だということだった。
 私たちが集まっているとその終わり頃に、小唄の彼女が時々来て、やがていつしかメンバーの人とも知り合いになったみたいだった。小唄とアナキズムも別段変ではなく、そんなものを気にする者はそこにはいないようだった。たたんで三味線らしきものを持参してることもあった。そもそも私たちの集まりに何のためにやって来るのだ、とききとがめる者もなく、その日のことが終わるとその幾人かといっしょに、歩いて、お茶の水駅あたりからひじり橋を横切って、坂を下って、薮そばに行ったことがあった。そんなことをくりかえしているうち、私たちの集会に小唄の桃山晴衣が加わることが、当然のようなしきたりみたいになっていった。だが三味線と小唄、若い女、と並べてみても晴衣さんにはいろけというものがなかった。奇妙な女、といってやりたい気もしたが、さてそれ以外のものはなかった。いっしょになって、さわぐという程のこともなく、そのことが永くつづき、一方アナキズムを話す会は自然に息がと切れた。
 記憶に残っているのは、いつの間にか「桃山晴衣をきく会」とでもいうべき小さな人の連がりが出来ていたことである。このことは『思想の科学』に「桃山晴衣論」を書いた安田武の熱心からのようだった。やがて「晴衣をきく会」は安田君によってつづき、琴をつくる人の柿沢さんや明治・大正演歌師添田さんなどによって支えられた。私は時々顔を出す不精な聞き手としてつづいていた。いつの間にか二十年、いや三十年。三一書房に集まった私たちも、今ははるかにバラ、バラ、となり、三、四人のメンバーは最早死に赴き、何らかのかかわりを思うにしても、もうあの頃の三分の一も居ないだろう。桃山晴衣チャンも彼女なりに、三味線や蛇皮線などをひっかついで花のパリのどこかを流し歩いて、いるらしいとのうわさ。まったく今の「於晴会」の状況について私自身は何を知るところもない、なくなった。去年の九月一日、新宿の牛込の、何とかいう会場に人々が集まって、秋山清の老年に拍手する会といわばいえそうなものさびしい会が出来たとき、風邪に悩みながら三味線を提げて晴衣君は来てくれた。
 私のために演じてくれた彼女の三十年の成長をそこに見た。
 その次の日から彼女を知る程の人に私は、彼女を推せんしたものである。
 「晴衣さんも成長したよ」。なんだかわからないが、ひどい風邪を引き込んで、話しも不自由、のどはかさかさ、になりながら、もう何かに程近い。何に近いかときかれても楽(がく)に造詣のなき身のかなしさに何も答えるすべを持たないが、いや、それを持たないからこそ「モモヤマハルエさんはいい声でしょう」の一本槍で、人々にお礼をいった。
 年はなんぼになるのか、知る由もない。結婚などもやったことがあるのかないのか、そんなことを巴里まで問うてみる興味もなく、ただあの頃、戦後的な騒がしさの中で、われわれが、あれにもこれにも興味を見せて飛びついていた頃から変わりないこの女の人に、責任のない親しみを送ることにする。半年に一度も出逢わない親しみというもののために」
               (一九八五年二月 桃之夭夭記載 )

桃山晴衣秋山清が絵皿に書き残した詞:桃山(左)は筑前今様の詞、秋山(右)は背中には目がないという自作詞か?>
 「桃山晴衣の音の足跡」の第一回目に桃山が自ら発刊してきた三つの機関紙のことを書いた。その一つ「桃之夭夭」は1975年から1985年の十年間にわたって発行された最初の機関紙で、75年に発行された第一号に、すでに秋山清氏の寄稿が掲載されている。「オンチの弁」と題した自称オンチの弁であるが、桃山は「秋山さんの”オンチの弁”などという言葉にまどわされませんように。秋山さんは知る人ぞ知る、素晴らしい声の持ち主です。少年のように凛とはった声音には一度聴くだけで惚れ込んでしまいます。原稿を書くのに疲れたひととき、ひとりで、思いつく歌をテープに吹き込んでいるという愉しい方です」と、秋山氏の自称オンチの弁を撤回している。
 桃山の残した多くの録音テープの中に秋山清氏から贈呈された自ら歌い録音したカセットがある。そのレパートリーは「さすらいのうた」「流浪の旅」「ゴンドラの歌」など明治、大正、昭和の流行り歌から、地方の民謡の中でうたわれたクドキや心中ものまでとレパートリーも多彩で、桃山はこうした感性の豊かさからも秋山清に厚い信頼を寄せていた。
 そして「桃之夭夭」の最終号、1985年に発行されたこの紙面に上述した秋山清氏の文章が「八十の妖妖」と題して掲載されているのであるが、そこで氏が書いているように、アナキストの会も、そこに集まっていた人達も一人一人と跡を絶っていったのだが、桃山はことあるごとに秋山氏のもとに出向いて話しを聞いてもらっていたのである。その長い交流のうちに、秋山清氏から「竹久夢二」を晴衣のために書くという喜ばしい知らせがあり、未完成の原稿を受け取り音楽にすべく計画をねっていた。しかし『婉という女』とは違い、夢二は女の桃山が語るには少し無理があり、迷っていたとき、私と出会い、83年の二人で行った初めてのジョイントコンサートでその可能性を見つけ出した彼女は秋山氏に再び「夢二」の原稿の完成を依頼し、二人で『夢二絃唱』の創作へと踏み出していったであるが、これについては後に詳しく述べることにする。

 「秋山清は、二十年間というもの私に、アナキズムの”ア”の字も口にしたことがなかった。私は何か問題につき当たるたびに”秋山さんだったらどうするだろう”とまずこの人の現実的な具体に対しての身の処し方をおもいおこしてここまでやってこられた」という桃山。権威主義を嫌い、庶民の目線でものごとを考えてきた彼女の生き方は、二十代の頃から親身につきあってもらってきた秋山清はじめ、伊藤信吉、徳川義親、添田知道、英十三、岡本文弥といった気骨ある明治人から多く学んだ生き方でもあったと思う。

(伊藤信吉氏や徳川義親氏の桃山晴衣についての文章が桃山のホームページに掲載されていますので参考にしてください)