「桃山晴衣の音の足跡」番外篇 東北関東大震災に寄せて

 今回の東北関東大震災の惨事によって、悲しみの連鎖が日本列島を覆い尽くし、私自身もしばし思考停止状態が続き、ブログを先に進めることもままならなかった。
 この地震をめぐっては被災地の状況をはじめ様々な角度から問題提起がなされているが、深刻な原発事故問題や災害地の問題などは確かな情報もつかめないまま軽々に口にすることはできない。
 ちょうど「桃山晴衣の音の足跡」で書いてきた明治大正演歌の中に、まだ一世紀も経っていない88年前の関東大震災に自ら遭遇した添田知道氏が作った民衆歌があり、氏の著作『演歌の明治大正史』にその歌がいかに誕生したかが綴られているのに興味を持ったので、ここに紹介して話を進めたい。

 「一団々々のうずくまりのつながり、その間を、散りぢりになった家族を探しもとめる声が縫い、名を記した布旗をもちまわる者がつづく。早くも排泄物の臭いが蔽う山となった。一望の焼土を見はるかしては、昨日までの東京が再建されるとは思えなかった。関西遷都説も流れてきて、さもあろうかと思われ、汽車の止まった線路は、知る辺寄る辺をたよって落ちゆく人列の道となり、延々とつらなるこれが避難民と呼ばれた。
 まだ熱気ののこる焼け跡の灰をかきならす人々。たよって行くべき先をもたぬ底辺者たちは、焼け木杭、焼けトタンを拾い集めて、露をしのぐ小屋つくりをはじめた。赤さびた犬小屋にも劣るその点々が、実に東京復興の芽となったものだが、--------飢餓、朝鮮人蜂起襲来の流言、戒厳令、自警団組織、そして虐殺。天災に加えて人災のつなみがおこった。朴烈、金子文子の検挙。亀戸警察署は、平沢計七、川合義虎ら南葛労組の八名をはじめ、多くの人々を参殺し、大杉栄伊藤野枝、橘宗一は憲兵隊で絞殺された」
 「東京、横浜はほとんど灰燼と化し、死者十万を出す酸鼻の地獄図を地上に現出した」という大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災の情景である。被災者の一人としての添田知道氏は「下谷で焼け出された筆者らの遭遇を、綴っている場合ではないのだが」と断りつつ、さらに自らの目で見た悲惨な情景を書いてゆく。

  関東大震災大正12年9月1日、1923年)
 「千葉県我孫子在の叔父の旧友をたよっていく途次、サスマタなどという古い捕物道具の一式でとり囲まれたこと、帝釈天の宿舎で白刃をつきつけられたことなど、わが身にふりかかる危険もあったが、それよりも鮮明に刻みつけられた情景がある。避難民の烈にまじって線路を行く、金町に近いあたり、田圃の中の一筋道の彼方から、馬蹄の音がしてきた。見ると、二人の騎乗兵が左右から、縄尻をとった男を中にひきずってくる。男は血まみれ。それを一組として、次々十余組がやってくるのだ。近づくにつれ、地上をひかれるのが朝鮮人とわかったが、どれも血だらけの、中には股間を夥しく染め、すでに蒼白の面に、歯をくいしばり、胸をはってくるものもいた。が、馬を早めると、徒歩の血をたらす人は胸の長さだけ後方から、吊られてゆく形となる。人間が人間に、こういうことができるものだろうか。目をそむけ、つむってみても、灼きついた映像ははなれない。
 朝鮮人さわぎの流言は、あの非常の混乱から、大衆的暴動も予想され、それをそらすための政治的機略だったとする説があったように、ここにまたしても、対鮮政策の過去に加える禍根をきざみこんだことはまちがいなかった」
 知道氏は焼け残った叔父の家に戻り、父添田唖蝉坊は一人東北をめざした。すでに誕生から三十数年を経ていた演歌そのものは壮士から書生、そして音楽的にもバイオリンや他の楽器をとりいれて気骨を亡くした演歌師も少なくなかった。が、「避難民」とよばれ「人災のつなみ」の中に巻き込まれた添田知道氏の演歌魂は惨状の説明だけには終わることはなかった。焼け野天に残った知道氏は人間集団の吐き気を催すような不条理を目のあたりにすると同時に、焼土と化した地に残り必死で生きていこうとする衆の頼もしく強い生命力にも揺り動かされた。

「焼け跡の野天に、にわか商売のすいとん屋、うであずき屋が現れていたり、やがては道ばたの人だかりをのぞいてみると、震災被害の写真エハガキを売るのであったりするようになった。焼け野原に焼けトタンの小屋もふえたが、新材のバラックも建ち始め、生皮付きの杉丸太が一本二円、トタン板一枚が三円だった。そうした材料を売る者もまだ自分のバラックなしの野天の商いだった。が、そんな灰燼の中の動きは、復興の意気というより、大地にしがみつく人間の必死な姿と映った。そんなとき、本所で焼けて近くへ移って来た演歌人が、震災の歌をつくってくれないかと相談にきた。それで前述のもの(大震災のうた/添田知道詞、鳥取春陽曲)や、復興節などをまとめ、焼け残った印刷所をみつけて印刷した。ペラ八頁の唄本ができると、素早い演歌人たちがそれを抱えて各地方へとんだ」
 そして知道氏もこの唄本を持ってとんだ。
「日暮里の焼亡をのがれた地区とはいえ、夜は暗く死んだように沈みかえっている。そんな中で歌声をあげたりしたら、袋だたきにでもあうのではないか、そんな不安があった。とある横町でうたい始めると、忽ち、暗い家々から飛び出してきた人々にかこまれた。しかしそれは、不安と逆な、熱心に聞き入る人々であった。勢い歌う方にも身が入る。大歓迎で、持って出た百部の唄本がすぐに売り切れて、妙な拍子ぬけをした。そして、どんな深沈の中でも、人々は音をもとめている、ということを知った。音。それは生命の律動。律動のない生命はない。律動の感応が、生命をおどらせる。ということだ。その音の質なり現れ方への考察はまた別の話しとして、根元的なところでこれを知った。人々は食の飢えもあるが、音にも飢えていたのだ。そして疎末な唄本にとびついたことは、活字に飢えていたのでもあると考えられた」
 
 家は焼けても 江戸っ子の
 意気は消えない見ておくれ アラマ オヤマ
 忽ち並んだ バラックに 
 夜は寝ながらお月さま眺めて エーゾエーゾ
 帝都復興 エーゾエーゾ


 このような歌詞で始まる添田さつき(知道)作詞・作曲の『復興節』はたちまち庶民の心をつかみ、全国に流行したが、この時期を境に明治20年頃から民権運動のメッセンジャーとして始まった演歌は、震災直後の帝都復興期を経てラジオ(翌年)やレコード(四、五年後)が普及するにつれ、流行歌手、職業作曲家、作詞家による歌謡曲の方向へと次第に形を変えてゆき、当初の歌の気概を失っていく。添田知道氏の『復興節』は自らが関東大震災の被害者となり、どん底から這い上がってくる限りない庶民エネルギーに鼓舞されながら歌い上げた、演歌魂の最後の「復興」でもあったのではないだろうか。
 なお添田知道氏は明治の壮士演歌が「敵を意識することを以て生甲斐とする、勝負師根性」を無邪気に(大和魂)と宣揚したものの洗い出された正体であったのは、悔やんでも追いつかないとし、「ムコ・ムチの民はそれにひきまわされて、泣きの涙を唄にたくしていたばかりの、つまらない明治大正史を、いままたリバイバることはあるまいに、あたかも現実に再演して見せられるかに感じるのは、筆者ひとりだけであろうか。リバイバルとはそれを再吟味再検討することでようやく意味を生ずるものだ。安倍磯雄を委員長の社会民衆党と、大山郁夫を委員長に再編された労農党。いずれもひとからげに叩きつぶされて、軍国歌謡いさましく満州事変からやがて対米英戦争にまで、日本崩壊への急な坂道をころげ出す、(昭和聖代)へ、バトンタッチ」と反骨の演歌師は演歌の終焉期にこのような感慨を記している。

 2011年3月11日、東北関東大震災が発生して以来、さまざまな情報が行き交っている。といっても我が家の情報源といえば、NHKテレビのニュースだけ、いまだに携帯電話も持っておらず電話での情報もほとんどない。情報源はこのように少ないのだが、一局のテレビニュースに集中しただけでも次から次へと被災地の状況が発表され、その放映の最中に別の地で地震が発生したというアナウンスがテロップで、また今回被災地の人のみならず多くの人が関心を持たざるを得なくなっている福島第一原子力発電所の事故状況が時間単位で目まぐるしく報告される。また今回は想像を絶する巨大津波地震の襲来であり、さらにその被災地たるや青森から東京までを縦断するとてつもない広さであるため、次々と報告されていく場所の確認すらできず、その被害の大きさがいかようなものかも想像力を働かすことができなくなってしまう。
 そんな中、わたしのメールにメッセージが届き始める。すべては外国からだ。おそらく海外では悲惨な被災地の情景が各メディアで大きく取り上げられ、トップニュースで報道されているにちがいない。メールを送ってくれる人達は被災地がわたしの居住地がかなり離れていることもわからないまま心配してくれるのだが、わたしとしてはそれをそのまま被災地の方へのメッセージとして受け取り感謝したい。そのいくつかのメールの中にルワンダの友人、ドルシーからのものもあった。彼がこの地震の、そしてツナミの被災者にすばやく心寄せるのはよくわかる。

 1994年4月7日の朝10時、ルワンダで起こったジェノサイド、大量殺戮の犠牲者となったキガリに住んでいた住民は45分間のうちにすべて殺され、家は焼かれ、人は土中に埋められ、ドルシーの両親、兄弟そして近隣の者たち全員があとかたもなくそれに巻きこまれてしまった。たまたま遠隔地にいた当時大学生だったドルシーだけが難を逃れ生き残ったのであるが、身内の者の遺体も遺品もいっさい探し出せないまま彼はその後、危険覚悟で、逃亡を試み、ルワンダを脱出し、数年後亡命者としてベルギーに居住する。彼の父はルワンダの国民的詩人であり、伝統舞踊の伝道者でもある文化人であった。その父の意志を受け継ぐかのように彼はベルギーで演劇の勉強をし、役者として活躍、自らジェノサイドの悲劇を体験した者達と『ルワンダ94』という演劇で話題になった後、ピーター・ブルックに認められ、『ティエルノ・ボカール』という芝居で私と公演を共にして親交を結ぶことになった。彼のことは、横浜のバンクアートで開催されたドルシー演出の『追跡』という演劇公演で来日した際に、このブログの一番最初に詳しく触れているので一読されたい。この時に来日した役者は全員ルワンダのジェノサイドの犠牲者で、自らの体験を踏まえて、ペーター・ヴァイスの脚本でナチスアウシュビッツでの大量殺戮を描いた『追跡』を上演した。
 今回何度も繰り返されて放映される東北各地での被災者の光景を目にしたとき、すぐに脳裏に浮かんだのは一瞬にして家族を失ったルワンダの彼らことであり、彼らの一人が横浜について劇場に向かう途、「ここは政府の高官が住む街なのか」と、私に尋ねたことである。彼がなぜ高官の住む街なのかと尋ねたのは、行き交う自動車、一般車という一般車がルワンダでは高官しか乗れないような新車ばかりだからだった。もちろん横浜の街を走っているのは日本人にとってはごく普通の一般車であるが、ルワンダではこのような車は政府の高官クラスしか持てないし、一般は車を持つこと自体、高嶺の花である。この車の話を思い出したのは、被災地の映像という映像に、シンボリックなまでにこのルワンダ人のいう高官しか乗れない日本の車が、散乱し、転倒している光景を目にしたからだ。この車と原子力発電所の惨事、その両者から浮かび上がる石油と電気という現代のエネルギー問題。日本人はとりわけ高度成長期以来、欧米と同様に、この二大エネルギーを限りなく消費し、富を築き上げて来た。(これが添田知道氏のいう<昭和聖代>の産物か)今回の東北関東大震災が先の関東大震災と大きく異なるのは、ツナミという天災以上に、こうしたエネルギーに支えられた現代日本のライフスタイルから生じた人災被害の爪痕があまりにも大きいことである。その最たるものがいうまでもなく、東京都の膨大な消費電力を供給してきた福島第一原子力発電所のカタストロフィ。携帯やフアックスを通して、原発事故による被害の絶望論、希望論がまことしやかに次々と送られているらしく(どちらも見ておらず、人からの聞きつてでしかないが)、私が見ることの出来るテレビの速報も信じられるものかどうかもわからない現実を前に、情報の洪水に呑み込まれていく<ムコ・ムチの民>の無力さを感じる日々である。
 関東大震災のときにはラジオもなく、主な情報は人から人への声やビラを媒体にしたものだった。そして今回の東北関東大震災ではラジオはもとより、テレビ、新聞、パソコン、携帯と、数えきれないほどの情報網が世界中に広がっており、無数の情報が電波に乗って飛び火している(しかし電気がとだえた時、これらの情報は被災者にはいっさい届かず、非被災者の間を駆け巡るばかり)。これらの情報網を利用して、タレントや音楽家が被災者へのメッセージや音楽を送り始めているが、被災者の多くはそんなメディアを通しての映像や音楽を聴ける環境にもないし、そんなものを受信できる道具も持ち合わせていないだろう。添田知道氏が自ら被災者として被災地で声をあげ歌ったような、感性と気概をもった音楽家の出現を期待することもままならぬほど、日本音楽も根絶やし状態になってしまっている。震災報道の合間をぬってAKB何とか嬢まがいの女の子達が、言葉の聞こえぬたわむれの歌をうたう番組が放映されているのを見て(ニュースをみようとスイッチを入れたらたまたまでてきたので)、放送局の能天気ぶりにもあきれ果てた。
 先のブログで知道氏のストトン節を桃山晴衣が歌っているのをyoutubeで紹介したが、この唄には追加の文句があり、「それが震災の厄をくぐりぬけた大衆の、立ち直り態勢への調子づけにはなっていった」という。
 
 ストトンストトンと逃げ出した
 地震がこわいと逃げ出した
 逃げた家主さん戻ってくりゃ
 店子いじめる程のよさ ストトンストトン

 そして、「みんな裸の、焼あとの平等感は一場の夢で、復興が進むにつれて、またもや貧と富の差は急速にひらいていった」と知道氏は書き残している。
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岩手県長倉遺跡出土の遮光器土偶               福島県真石貝塚出土の土版

追記

かつての縄文王国、東北の海岸線にそっては多くの縄文貝塚が発見されている。貝塚は、いわば縄文人達の一万年間に捨てられたゴミの山であるが、今回この海岸線沿いに、あるいは海の底に集積されたのは、先ほど問題にした自動車やコンクリートや鋼鉄などのいわゆる不燃ゴミの山でもあり、一世紀にも満たない間に人が残すことになった遺物である。一万年という時を超えて、同じ地に積み上げられた異質のゴミの山から私たちは何を学べばよいのか。