桃山晴衣の音の足跡(14)明治大正演歌と添田知道(2)

 「こないだはごちそうさま。いろいろ準備でたいへんのときと思うけど、もしそのなかでくり合わせがついたらとお伺い。荒畑寒村老の生誕会を毎年やっているのだが、世話人の、いつか行った巌嘯洞の平岩と近藤真柄、おんなビッコ隊、それがこっちへ出向いてくれての相談。八月十四日六時、有楽町の「大雁」で、八十七回の生誕会をやる。例年、林家正藏師匠と文弥、宮染が演奏してくれるのだが(文弥氏は大阪が主だからどういう都合になるかはっきりしない)。これに桃山晴衣に一枚加わってもらえるかどうか。薄謝はもちろんだが、これは歴史的ないい会なので、明治人も多く集まる機会なので、桃山晴衣ここに在りのほこりをたたくチャンスとおもうので。とりいそぎ一筆」
                                             添田知道
 
 桃山はこの頃すでに添田知道氏から教わった演歌を三味線の手をつけて相当数歌えるようになっていた。その彼女の歌唱力を試すかのように、知道氏が演歌をうたうに最もふさわしい人たちが集まる場をしつらえてくれたのである。上述の手紙にある会が予定されていたのは、1974年の「古典と継承」第一回公演の20日ほど前、この公演のゲストは井野川検校氏の地唄で、桃山は公演で発表する自作の小唄を作曲していた時でもあった。しかし彼女にとっては演歌を初期の時代から直接聴いて来た明治人の前で、しかも添田知道氏の旧知でもある堺利彦の売文社時代の仲間たち、荒畑寒村、近藤真柄といった人たちの前で歌えることは、演歌をうたうのにまたとない機会であった。

   【荒畑寒村添田知道
 この「寒村会」での様子を桃山は以下のように書いている。
 「毎年行われるこの会は、添田知道、近藤真柄、平岩厳の三人が主な世話役となって、平岩さんの広大な屋敷内で催されることが多かったようだ。平岩さんについてはその付き合いもわからないのだが、先生(添田知道)は炭や石炭などもこの人のツテをたよって手に入れており、実行力のあるところにも全面的な信頼を寄せておられた。この人は徳川善親とも親しかったらしく、敷地のうちにはクロレラの水槽があったりした。そしてその居室らしい建物の一部屋に伺うと、由緒ありそうな年代ものの品がごろごろしている中に、小川芋銭の筆なる、有名な屏風が立てられていたりした。自宅で粉を挽いた手打ちそばや、会津の黒森から取り寄せた山菜の数々。平岩さん心づくしの品々にみんなが舌鼓をうっているところへ、まず荒畑寒村先生のあいさつになる。『お玉が亡くなり、生きていてもしかたがないのにまた空しく馬齢をかさね・・・・』とはじまると、『まだあんなこと言ってる。女はね、おんなじ境遇にあっても弱音ははかないのよ』と脚の悪い真柄さんは柱にもたれ、はなれていて動けないのをひとりごちているように言い返している。少年のように純で汚れを感じさせない荒畑寒村。この年長者を柱に肩を寄せあっている、なんとも人間らしい暖かさが、この集まりを成り立たせているようだった。
 日本芸能の場合もそうなのだが、「演歌をうたう」というと、意味をなぞりながら、あるいはその意義で聴かされることが多いので、とてもやりにくい。が、ここではうたい出すと手拍子の打ち方に熱気さえはらんで、またたく間に昂揚してゆくのが、いつもとは違っていた。考えてみれば、私は唖蝉坊とともに演歌して歩いた人達の中で歌ったことになる。席へ戻ると「あんたのうた、いいよ!」「うまいね!」とまわりにいた人達が口々に声をかけてくれた。
 「桃山がなぜ演歌などやるのか」「演歌は会わないのではないか」という声があった。が、この意見には動かされるものがなかった。演歌というものを違った観念で固定してしまっていると思ったからだ。それに私はこのころ<演奏家>として音楽してはおらず、どういう歌をどううたったら良いのかを模索している最中であった」

 
 ここに書かれている「私はこのころ<演奏家>として音楽はしておらず」という桃山のことばは、彼女の音楽歴を考える上で非常に重要である。桃山晴衣はそれまで幼い頃から自然な形で三味線と長唄、小唄、端唄ほか、邦楽と呼ばれるものに親しみ、十代で家元の師匠になり会で演奏発表をするといった、いわば邦楽に親しむ特定の人々を対象に時々の演奏会を開き、その後は自分の腕をさらに磨くために古曲宮薗節の家元、宮薗千寿師のもとで内弟子修行を続ける身となり、この古曲の演奏で舞台に立つということも稀であった。しかし彼女は60年代に宮薗千寿師のもとで修行する間、秋山清加太こうじ、英十三、円城寺清臣など、長老組に囲まれた「於晴会」というグループで「桃山流」のレパートリーを演奏すると同時に、自らの音楽展開についても話し合ってきた。そして70年代に入り、「於晴会」の面々が明治の長老組から昭和世代の若者組に変わる頃、そろそろ不特定多数の人、ロックや歌謡曲しか聴いていない人達にも向けたコンサートをするべきで、プロとしての活動をすべきだという声が高まり、それが「古典と継承」へと繋がっていくのであるが、この転換期において「寒村会」で演歌をうたったことは、桃山晴衣がこれから独立独歩で音楽家として茨の道を歩いていくうえでの大きな示唆を与えてくれたものだったと思う。
 というのも、明治初期に民権運動を広めるために壮士たちが全国を津々浦々歩いては不特定多数の者に向けて歌でメッセージを伝えるために始まった、いわば日本のプロテストソングの草分けともいえるその歌の在り方に桃山は興味を持ち、またそれが一世紀にも満たない間に、不特定多数の者ではなく、料金を払って聴きに来る聴衆に限って歌う昭和演歌、歌謡曲へと変質していった、そのあやうい民衆歌の移ろいの本質にこそ興味を持っていたからでもある。今は邦楽同様、演歌もまた一つのイメージや形にとらわれてしまっている。先述したように最初の壮士演歌から書生演歌に様変わた頃の、バイオリンと書生姿というイメージが固定し、やがて演歌に歌謡曲風なアレンジが加えられ、うたそのものよりも演歌的雰囲気やイメージをなぞるようなものばかりが目立つようになってしまった。
 桃山は「寒村会」と先述の「橘宗一少年の会」で、明治の演歌人といえる人達の前でうたい、「演歌が生きている状態」を体験することができたという。そして同じ演歌を歌っても大阪のコンサートでは「お嬢さまが尻っぱしょりして雑巾がけしているような・・・・」という評をもらい、受け手の持つ先入観やイメージがいかに大きく音楽に影響するかを知らされたという。これは私がピーター・ブルック劇団でいやという程体験してきた問題でもある。シェイクスピアの作品を発表すると聴衆は一時期のシェイクスピア芝居のイメージを引き下げて劇場を訪れ、それにそぐわなければ興味を示さなくなる。ブルックもまた本質を突き詰めていく演出家であり、常にこの観客との問題を重要視してきた。『なにもない空間』に書いているように、演劇にとって何が必要なのかを徹底して追求してきた人である。衣装や照明や音楽や大道具、小道具など、本質を覆い隠すものが時代とともに膨れ上がり、役者と観客の間で伝えあうものがそこでとざされてしまう。演歌もまた時代とともに、声だけでうたってコミュニケーションをとっていたものが、イメージと装飾で覆われるようになり、本来の姿から遠ざかりつつある。

【写真前列右端:添田唖蝉坊、その列左はし:竹久夢二とそのマントにくるまれた添田知道少年】
 桃山はまた「寒村会」や「橘宗一少年の会」を、「人々の間に関連がなければ音楽が伝達もされず意味も持ちえない」と何かの本で読んだ言葉が実感される経験であったといい、その二十日後には新たな観客を前に「古典と継承」を開催して多くのことを学んでいく。これらの経験がやがて『梁塵秘抄』を発表した際、花園神社に始まり、鴨川や見知らぬ寺院境内、大学キャンバスなどを舞台に不特定多数の人に向けてうたうという試みや、各地で桃山のうたに興味を持ってくれる人たちと手作りの演奏会を開いてゆく踏み台となったことも間違いないであろう。
 20年近く、「於晴会」のご意見番としても厳しい意見を投げかけてくれた添田知道氏から桃山が学んだものはうただけでなく、演歌の本質でもあった。その桃山晴衣を知道氏は早くからこう賛していた。
 
 「桃山晴衣は”試み”をしている
  聴くにたる 試みをしている
  こころみに練りがあり、美がある
  とすれば、それだけでもいい
  が、それだけではない 面がまえがある
  そこから何かが生まれる
  それがどんなガキか
  誰も知ったことじゃない
  それでいい
  ガキよ来い 来い 」        添田知道