桃山晴衣の音の足跡(13) 明治大正演歌と添田知道

 「古典と継承」シリーズで、桃山晴衣は「雪女」「婉という女」など語り物に挑戦した。それは明治以降、西洋音楽を尺度にするようになり、語り物が音楽ではないという風潮になってしまっているという疑問からの出立であった。うたが好きだった桃山は、常に自分が心からうたえるうたが無くなってしまっているといっていたが、その一因に、うたの内容やうたそのものよりも、西洋音楽のハーモニーやリズムによる作曲や様々な楽器による技巧・装飾的音楽要素の方が強調されるようになり、本来日本のうたが持っていた語り的なものも希薄化されてしまっているからだという。このような疑問もあって、うたの内容が伝わらなければ意味をなさなかった、演説歌ともいえる明治大正演歌を”語り物”と考えた桃山は、演歌の創始者である添田唖蝉坊の子息であり自らも多くの演歌を作詞、作曲してきた添田知道氏のところへ”内弟子”と称して弟子入りし、昭和の歌謡曲にまで発展したこの民衆歌、演歌の実態について学んだ。
 そこで、添田知道氏の『明治大正時代の演歌』という著作をもとに演歌について概説しておこう。演歌は明治20年頃に、自由民権運動の産物として発祥したとされている。明治は民権自由の声が高まった時代であるが、いうまでもなく民権運動は政権者の弾圧をうけ、まったく言論の自由を奪われていた。民選議院の開設を唱える板垣退助らの言論行動が民衆の血気を沸き立たせ、それを政府が躍起になって鎮圧したことから官と民の境界が鮮明となり、民権論者は常に官憲によって追い払われた。こうした妨害によって阻止された運動を何とか押し進めようとして生まれたのが、演歌や新講談だった。

【明治赤本『新選壮士武士』の口絵に描かれた演歌壮士】
板垣退助は外遊後に、「民権自由の思想は、社会の下層にこそ浸透させなければならない。それは生硬な演説よりも、俗耳に入りやすい小唄や講談を用いるのがいいかもしれない」といったことがあるといわれ、知道氏は推測として、パリに行った際、街頭で手風琴でうたいながら歌本を売る、路傍歌手を板垣が目にしていたかもしれないといっているが、民権運動者が弾圧をくぐりぬける手を思案したあげく、明治20年から21年にかけて始めたのが、民権壮士の路傍演歌とされている。この時期には伊藤仁太郎、奥宮建之らの政治講談や、角藤定憲川上音二郎らの壮士演劇なども開始され、芸能を通して壮士が民衆にじかに呼びかけ、触れていく新たな動きが起こったのである。「鹿鳴館時代」の背伸び外交期のバックで、演説ならぬ歌をもって説くの意、”演歌”という新造語が定着し、自由民権の思想を普及する意図をもって、壮士達は街頭に立ち、うたい、その歌本を不特定多数の民衆に配った。この頃の荒削りな措辞の作歌と節回しの演歌は「壮士節」と呼ばれ、日露戦後にはこれが民衆の中にさらに根をおろし、時代の風俗であった書生姿で演歌をうたう者が多くなったことから「書生節」と呼ばれるようになっていく。そしてその後演歌屋さんという職業音楽家の類いが出てき、この演歌屋がバイオリンを持ち出すのが明治43年頃、演歌誕生からすでに20年以上が経ってのことだった。これが風俗ともなり大正、昭和初期まで続くが、レコード産業、ラジオの普及で歌謡・ニュースの伝達者としての演歌師の職能は終わったといわれる。
 一般に演歌というとバイオリンを弾き弾き唄う書生姿の演歌師を思い浮かべるが、上述のごとくこれが一時期の風俗であることが演歌の歴史を紐解いていくと分かるだろう。
 その上で「演歌二代」といわれる添田唖蝉坊、知道親子のことにも少し触れておく。
    
添田唖蝉坊】                   【青年倶楽部のビラ本】
 演歌の創始者といわれる添田唖蝉坊は明治5年、1872年の文明開化の時期に添田利兵衛、つなの次男として神奈川大磯で生まれ、名を平吉といった。13才で深川の叔父の家に預けられた後、17才まで船乗りや人夫、カンカン虫に従事し、18才の時に横須賀の街頭で壮士演歌に出あう。「青年倶楽部」を名乗るこの演歌師たちから、唖蝉坊は歌本を取り寄せ単独で何百部も売りさばき、やがて倶楽部のメンバーとなる。が、29才で青年倶楽部をやめ、太田タケと結婚し、長男知道が誕生する。彼が青年倶楽部をやめたのは壮士たちがあまりにも政治闘争に巻き込まれてしまい、政治的野心のない唖蝉坊にはついていけず、独自の純正演歌の道を歩みだすのだ。彼の演歌作品は青年倶楽部に属した明治25年の「愉快節」を処女作とし、以来昭和五年の「生活戦線異状有り」まで残っているものだけで182曲あるといわれている。風狂といわれる唖蝉坊は一つ所に落ち着かず、晩年は63才で四国遍路に立つなど奇行もあり、1944年、馬込の添田知道宅で逝去、73才だった。

添田知道
 この父のもとに生まれた添田知道は、七才で大磯の祖母に預けられ、八才で母を亡くす。1915年、中学中退後、堺利彦の売文社に給仕として入社し、荒畑寒村尾崎士郎らと知遇を得る。翌1916年、16才の若さで、父唖蝉坊の後を追うかのごとく、さつきの名で書いた「東京節」がヒットし、翌々年売文社をやめ、雑誌「演歌」を書いたり、街頭での演歌の実践を始める。知道は文学を志していたが、結果的に添田唖蝉坊の歩んだ道に沿って演歌の作詞、作曲を行ったり、民衆歌謡や演歌にまつわる多くの著書や小説を残すことになった。彼の筆力がなければ添田唖蝉坊のことや演歌史がこれほど後世に伝えられることもなかったであろうといわれている。
 
 添田知道氏が演歌作りに力を発揮し「復興節」「ストトン節」などヒット曲を生み出したのは20代半ばの昭和初期までで、以後は執筆活動を主としていた。桃山晴衣が知道氏と出あった60年代から70年代は、『素面』という季刊誌を発行する他、『演歌の明治大正史』『香具師の生活』『日本春歌考』『演歌師の生活』『教育者』など多くの名著をたて続けに刊行していた時期でもある。知道氏との出会いを桃山は次のように書いている。

桃山晴衣添田知道
添田知道氏とは、岡本文弥師の本牧亭の会に三島一先生とご一緒に舞台で並んで何かしゃべった。その時が初対面らしいがさだかではない。それ以来ずっと於晴会の柱の一人となって、容赦のない言葉をズケッ!とあびせるのが先生の役目となった。おそまつでした、とあいさつすると「おそまつなんてこんなもんじゃねえ」といった具合に。あるとき「オイ怪物がいるよ」と女房ドノに云ったとかで、そのころは世間並みの常識からどうもズレているらしい自分に気がつき始めていたので、私は内心小さくなった。添田先生はやさしい。とてもやさしいから誠意のない人間にはよく憤る。世の中はだんだんに悪くなるから年を追って憤ることはますます多くなって来る。添田先生は無精だ。先生はこまめで律儀だ。だからかたむいてガタピシする家の中で長火鉢に炭火をおこして、梅干を食べたらタネはためておいて天神さまをとり出して酒のツマミにし、カラは南京豆のカラとタバコの吸い殻とたきつけにする。そして毎日お風呂に入る。ぬるい湯にゆっくりとつかりながら、ここで必ずミカンを食べる。これら毎日の行事の全てを、奥様が亡くなってから七年間もひとりで続けてこられた」
 桃山は「古典と継承」が終わった夏から、唖蝉坊も逝去するまでの一年間を過ごした知道氏の馬込の家に、内弟子と称して通うようになった。添田氏はすでに齢七十半ばになっており、夫人を亡くされ、自身も「腰を痛め、血圧も不安定な病身を持て余しながら、一人で暮らしておられた」という。束ねた新聞、本が山積みとなり、手紙、書きかけの原稿、雑誌などが足の踏み場もなく置かれた、もと茶の間であった玄関脇の四畳半に寝ころび、一日の行事の合間をぬって、話したり歌ったりしてくれるのを桃山は録音し、メモをとり、質問してゆく。演歌が生まれた社会背景、人と人とのかかわりがひとつの歌に連関しているさま、演歌の変遷などに興味を持っていた桃山は、それを演歌の創始者を父とする添田氏から学べるのがまたとない幸せだったといっている。彼女はこの内弟子と称する期間、炊事、洗濯、掃除と氏の身の回りの世話も始めていたが、添田氏は「日常のなんでもない事柄のひとつひとつが根幹となるものとつながっているという考え方」をもっており、それをおろそかにすることにうるさかったという。とりわけ台所では、作業の流れが狂うためか、使い終わった包丁の刃が右と左にかえられても機嫌がわるくなったというが、このことは桃山自身も若者たちにいつも強く言っていたことで、こうした添田氏の姿勢にも魅せられていたのだろう。(次回に続く)