神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」に寄せて/<添田知道さん・演歌について語る>

 今年の3月2日から4月14日まで神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」が開催される。ここ数年、私が「邦楽番外地」と称して唄い、講演を続けてきた演歌の祖、添田唖蝉坊と知道、親子二代の関連資料を集めた展示会で、添田知道氏の甥の入方宏が寄贈した文学館のコレクション「添田唖蝉坊・知道文庫」からの出展が中心になる。生前、桃山晴衣から知道さんに出した手紙などもここに寄贈されているということを聞いていたので一度二人で伺いたいと思っていたのだが、彼女が逝去してしまい、その機会も遠のいてしまっていた。それがなんと私に今回の展示会記念イヴェントへの出演依頼があり、「添田唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの」と題し、三味線での弾き唄いとトークをやることになった。この不思議な演歌との巡り会わせについては後日述べることにして、ここでは添田知道師に長い間ご意見番となっていただき、晩年は先生から演歌の節を細部にわたって学んでいた桃山晴衣が自らの機関紙「桃之夭々」1976年の3号に掲載した於晴会での添田先生の簡単な演歌についての話を紹介しておこう。

添田知道さん、演歌を語る〜5月10日の於晴会から」

添田知道桃山晴衣
 明治時代、自由民権運動はひどい弾圧を受けましてね。演歌はそれへの抵抗の形なんですよ。当時、思想を訴える方法としては演説があっただけなんです。これは西洋輸入の方式ですが、常に官権がついてまわり、何かお上筋に気にくわないことをいうと、まず、「弁士、注意」とやり、それから「中止」となる。さらに弁士が代わってまた中止をくい、ガタガタして最後に「解散」ということで、追い散らされてしまう。演説会も思う様に出来ない。そこで形を変えて歌でやったらよかろうということになったわけです。
 ちょっと面白いことを憶いだしましたが、板垣退助が明治19年頃、フランスに行き、ビクトル・ユーゴーに会っているんですね。その時、ユーゴーに聞くわけですよ。「日本はまだ後進国だ。もっと大衆に自由の心を広めなくてはならない。それにはどうしたらいいだろう」とね。ユーゴーの返事が傑作でしてね。「私の小説を読ませなさい」というんですよ。「レ・ミゼラブルでも読ませろ」ということでしょう。愉快な話なんで覚えているんですが・・。ところで、昔からヨーロッパには吟遊詩人というのがいた。板垣はそれをちらっと見て帰国後、民権運動の立て直しをする時、漢語調の堅苦しい演説をやるよりも歌のような楽な形の方がいいんじゃないかといったというんですよね。それから演歌が始まったともいわれるんですが、確かなことはわかりません。が、ありそうなことですよ。で、説をとくかわりに、歌で演ずるというので「演歌」という新語ができたわけ。そして壮士自由演歌としていろいろ歌をこしらえたのですが、演説と違って屋内から街頭に出て行った。ここに一番意味があると思うんです。その場合、例えば「ダイナマイトどん」のように、げんこつを突き出すという具合にやっていた。演説にも決まり言葉で「わが輩をしていわれむれば」といった演説調というものがありますね。あれで歌をやっていたので、調子を強くする。歌うというよりもどなる。それでないと、やる方はやた気がしないんですよね。だから歌詞に「ストライキ」とか「やっつけろ」というひどい言葉が出てくるんですよ。
 そういう中で添田唖蝉坊は、歌はうたで静かに歌っても伝わるものであり、人々の心に沁み込んでいくはずだという立場をとっているんです。わざわざどぎつくやることはあるまいという考えを初めからもっていた。だから東京に多いときで三百人もいた演歌壮士の中では少数派だった。

 それから「ストライキ節」に触れますが、これは娼妓のストライキではなく、自由廃業運動なんですよ。証文で体を買い取られて、一定期間働く。今で云う人権侵害ですよ。そういうことは不当であるというので、裁判になったが、なかなかうまくいかない。これは函館の例ですが、一、二番とも駄目だったのが三番でやっと「自由廃業を認めるべきだ」という判決が下った。ところが廃業してもあとの保証がなければ「廓の女」と差別され、正当に生きられないという不都合が会った。更正するする施設、受け入れ体制がなければ自廃してもしょうがない。セックスを売り物、買い物にするのがどだい間違いであって、根本問題を解決せずに形だけで騒いでいるのはおかしいというのが演歌の”目”だったのですね。
 もう一つ。民権思想の普及の方法として演歌が始まったということには違いないが、それだけではなく、風刺、社会批判、文明批評ですから、小唄の類でなく、もっと語りで長いものを歌った。いまの新聞の社説みたいなもの、新聞代わりだったわけです。幕末から明治にかけ、新聞がぼつぼつ発行され始めるのですが、とる人は非常に少ない。町や村でも一人か二人ですよね。そういう人がまわりの人に読んで聞かせたのですね。字を読める人も少ないしね。それが演歌の一つのあり方だったのですよ。その中に批評があり、風刺があったわけですね。(添田知道