良寛修行の寺、玉島円通寺での唖蝉坊演歌の会

2012年11月25日三連休の最終日、どんよりした毎日が続いていたと思っていたら、うってかわっての秋晴れ。この日、今年から各地に巡礼を始めた「邦楽番外地・添田唖蝉坊・知道を演歌する」の本年最後の公演を岡山県玉島の円通寺で行うことになった。そもそもの運びは、良寛が十数年修行を積んだ名刹円通寺が唖蝉坊ともつながりがあったことに始まる。唖蝉坊が自ら綴った伝記『唖蝉坊流生記』の最終章に、玉島円通寺のことが書かれている。大正12年関東大震災を境に、唖蝉坊は演歌活動からだんだんと遠のいていき、63才となった昭和10年の秋から四年間にわたって四国、九州、中国地方へと遍路の旅に出る。この四年目最後の巡礼の途、立ち寄ったのが玉島で、そこで偶然良寛円通寺と巡り会うことになる。この巡り会いの記が興味深いので紹介したい。

<羽黒神社の石段>
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<備中の国へ入って二日目、朝早く寄島の町の宿を出た遍路姿の私は、暑い暑い照り続きの道を、汗と埃にまみれて、玉島の町まで歩いた。約三里半と聞いていたが、四里以上も歩いたような気がした。あんまり暑さが酷いので疲れた故でもあろうか。・・町へ入った時は、もう十二時を過ぎていた。

 町中の小高い所にある、郷社羽黒神社に参詣して、集印帳に朱印をいただいて、境内の樹蔭に寄り添うて休息する。此の時、団体の参詣者がぞろぞろあがって来た。学生と先生達のや、料理店の女達と其の抱主の組などが、忽ち境内に充ち満ちた。今日は七月七日、支那事変二周年記念日である。その為にこんなにお詣りが多いのだなと思った。そして私も、郵便局の記念スタンプを取って置こうと思ってそろそろと社前の石段をくだる。

<元郵便局の建物>
 局はすぐ近い所にあった。局もタテコンでいた。局を出て、町を見て歩いているうちに、商店の看板の中にふと私の目に止まったものがある。菓子屋である。「玉島名物良寛せんべい」と。そして又五六軒先の方に、「玉島名物良寛饅頭」・・。
 良寛和尚・・何の因縁が在るのかと思ったが、然しすぐに私の記憶も甦った。此の地に良寛さんが足を止めていたのだ。たしか中年の修養時代であったろうか。度々人の語にも聞いていたではないか。うっかりしていた、間抜けた話だ。今日も旅、明日も旅。行く日も行く日も旅の空。あんまり旅に馴れすぎると、旅にいて旅の気がしなくなって唯々ボンヤリして来る。これはきっと「旅中毒」という奴かも知れない。独りでおかしくなった。
 良寛和尚の足を止めていた寺は、曹洞禅の円通寺というのであった。今は此の付近一帯の山が円通寺公園とよばれ、玉島名所の一つになっている。寺の境内には良寛堂というのが建っている。私は公園に遊んでいた土地の老人に「円通寺には坊さんが居りますか」とたづねたら、「一人居りますが、今は不在のようです、あなたここの坊さんにでもなるつもりか」と云われた。樹下の石に据し一ぷくする。所持のトマトを食う、昼弁当也。しばし良寛の昔を偲ぶ。

円通寺本堂>

 良寛の追憶涼し円通寺
 四辺皆無明の名所夏霞
 貯水池の底に水あり旱り雲

 今日はただ歩くばかりでお修行(托鉢)する時間も過ぎたが、たとへ小々でも勤めを果たさないと気味がわるい。托鉢する。>
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 この後、唖蝉坊は玉島の町を托鉢して歩き、「私は玉島が好きになった。」と書いている。

 演奏会の朝、主催者の日高氏たちと車で岡山市から玉島の町に着き、午後のコンサートまでに時間があったので町を散策しようということで銀行の駐車場に車を止め、道路を渡ると羽黒神社という「唖蝉坊流生記」に出てきた神社が目の前にあるではないか。坂道を少し登ると、唖蝉坊が書いていたように町中の小高い所に郷社が、昔のまま建っており、社殿の前では七五三の参詣にみえた家族が神主さんに御祓を受けていた。なんとこの家族の夫婦は昨日、日高氏が連れて行ってくれた岡山のカフェで偶然出会った方だった。私たちは神社裏から登ったようで、本殿の前の石段を降りてゆくと、壁の剥げ落ちた白壁土蔵の民家や昭和初期の建物が並び、そこから河に出ると、私が子供の頃よく遊んだ同じような水門が残っており、なにか小学生に戻ったような不思議な気分になった。水門前の橋を渡ると昭和初期のままの商店街につながり、シャッターのおりた店も多いが、何とも懐かしい店ばかりが並んでいるではないか。(なんでも映画三丁目の夕陽の撮影現場にも使われたらしいレトロな町なのだ)そして唖蝉坊の目に飛び込んできた「良寛せんべい」と「良寛饅頭」の店まであった。もちろんせんべいと饅頭を買った。

さらに商店街を戻っていると、これまた古く今は閉鎖されている旅館が見え、その表にここがかつて岡山で二番目に開業された郵便局であったとの解説があった。この郵便局が、唖蝉坊がスタンプを求めて立ち寄った局だったんだと、またまた感動。ただ歩いていただけなのに唖蝉坊の軌跡を辿っているようになってしまっているのが何とも不思議だ。知らずのうちに町中で唖蝉坊と同じ道を歩いた後、小高い丘陵地にある円通寺に向かう。先の商店街、川、そして海を見下ろすこの小高い丘陵は、懐かしいまでに故郷の多度津とよく似ている。円通寺の駐車場からは瀬戸内海が一望でき、玉島の対岸に私の故郷多度津がある。子供の頃、「一太郎やーい」と手を振る婆さんの銅像の建つ、多度津の桃陵公園展望台から見ていた対岸の景色がこの玉島だったのだ。円通寺本堂に向かう手前には美しい石庭園があり、そこを抜けると重厚な茅屋根の本堂が見えてくる。良寛像の建つ本堂前の庭の紅葉を色鮮やかに陽光が照らしている。連休ともあって観光客も次々に訪れている。

円通寺でのコンサートより>
 公演は午後2時30分から。会場は茅葺き本堂の中、住職様が祭壇前を舞台に使わせてくれた。会場に足を運んでくれたのは総勢70名近く、岡山市香川県など遠方からの人も少なくなく、本当にありがたい。この夏に同じく日高氏が開催してくれた岡山西大寺での会も盛況だったが、今回は先の会に比べて中年層が多く、非常に落ち着いた雰囲気の会になった。演歌についての説明に30分、その後明治からの唖蝉坊節を紹介し、名曲ラッパ節から馴染みの唄を続け、「むらさき節」で会場が静まり、それと関係の深い「鴨緑江節」「青島節」を唄った後、今回は「ノンキ節」を唖蝉坊のものに加え、昭和になって知道師がつくったものも全曲うたった所で2時間があっという間に過ぎた。玉島円通寺と唖蝉坊の繋がり、郡上の宝暦義民の一揆の時代に良寛さんが活動し、晩年文を交わした貞心尼が亡くなった年に唖蝉坊が生まれているなど、いろいろと不思議な繋がりを話し尽くせないまま、また今回「ああ踏切番」などの長歌も予定していたのだがやはり時間不足で無理だった。和尚さんからは又是非やってくださいとの話もあったが、とにもかくにもこうした会が実現するのは、理解ある主催者の熱意と実行力が不可欠であり、岡山で今年二度もの演歌の会をもてたのも企画者・日高奉文氏の尽力のおかげだと感謝している。唖蝉坊ではないが私もまた「私は玉島が好きになった」と結んでおこう。