神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」に寄せて(二)/<近藤真柄・老婆の口説き>

 以下の一文は桃山晴衣添田知道氏とともに参加していた荒畑寒村氏の「寒村会」で出会った堺利彦氏の長女・近藤真柄さんに、機関紙「桃之夭々」に寄稿していただいた一文。桃山はこの会で「唖蝉坊・知道演歌」を唄っていた。

荒畑寒村の「寒村会」での荒畑寒村桃山晴衣添田知道
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「老婆の口説き」近藤真柄
 秋の彼岸月のせいであろうか、年のせいというべきであろうか、この頃お墓の交際(つきあい)が多かった。二十数日間に五回もあったのだから、やはりその方向へ道がついたのだと思わざるを得ない。しかし何もびっくりすることも、突然の出来事のように慌てることもない。むしろ当然のことなのである。平均寿命が延びて、しかも女の方が四、五年も長くなったとはいえ、古来稀なる七十才を越えて、三年もたっているのだから、交際もあの世の方に多くあるのだが、当たり前のことである。
 そしてこれも当たり前のことなのだが、何だかおかしくてたまらない気になるのが、自分が父より年上になっていることである。私の生母は私の一歳半位で病死してしまったので、記憶にないから思いだすこともできない。育ててくれた母は、八十六才十一ヶ月で死んでいるので、記憶も深いし、思い出もあり、また自分の現在より、大部年齢の開きがあるので、比較してみたり、手本にしてみたり、瀬ぶみのメドにしてみたりして、喜んだり、悲しんだり、嘆息したりするのである。父の場合は、私が丗歳のとき、六十二歳で死んでいる。比較的壮年期から堺老だと呼ばれていたし、好好爺とも狸親爺ともいわれ、単純陽性とも、老獪ともいわれていた、謂わば並の年寄り、ただの鼡ではなかったような父が、今の自分よりも若くして死んでいるというのが、本当に妙である。でもただおかしがってばかりはいられない。

<近藤真柄・桃山晴衣
 短くてもいい仕事、役に立つ仕事をしていたら、それで結構、立派で羨ましいことであるのだが、私のように徒に生きてしまって、さらに徒に生きようとするつもりもないが、やむなくそうならざるを得ないことになり相なことが辛い。まわりくどい言い回しになったが、老極に至って、急に偉くも賢くもならないということで、長生きすれば辱多しという言葉が、最もよくあてはまる現在の自分をみると、やはり辛い。
 辛い、辛いと唄ってみても、どうなるものではない。自分が年寄りになる頃には、世の中の組織がよくなってきて、少なくとも最低の生活保障はされている筈だ、いやそうしなくてはならないと夢中になっていたのだが、そこに己を律する甘さと怠惰があったと反省させられる。幸せは向こうから歩いてこないというし、客観的条件はありながら、主観的条件の不備が力となり得なかったのである。
 ロッキード事件が暴露されて以来、七、八月、此の間に各種の選挙が十回各地で行われたが、結果は保守八勝、革新二勝、しかもその革新は以前から革新の地盤だったというのだから、選挙の勝敗には、口汚職事件は、かかわりなかったことになる。企業と政治家の密着に対する批判が投票で批判されなかったことである。郡山のようにその土地で起こった汚職事件で解散、選挙が行われたところでさえ、保守が勝ってしまった。もっとも四ヶ月前の選挙では五十余万票の差で勝った保守が、今回は八万余差であったことを見れば、四十余万を喰い入ったことになり、そこに前進を見ることは出来るのだが、もう一押し、二押しの力不足が、来るべき筈の転換を持ち得なかったのだ。有権者の意識不足だと云ってしまえば誰を怨みようもないが、全くここらで押し切りたいものだと思う。
 去日戦前に婦人運動をともにした旧友三人が久しぶりに会食をしたのだが、雀百まで踊り忘れずで、婦人相談員、民生委員、家裁調停委員、自治体委員などを、七十歳を越えた現在でも続けていて健在だった。それに引きかえ私は、生まれつき頭は悪いし、目には眼鏡、歯は入歯、耳は補聴器、足腰にはステッキという補強工作でやっとでは何も出来る筈がないと口説いたら、その上も一つ口も悪いときているんだからと、とどめを刺された。万事休すというところでお終い。(1976年9月30日)