桃山晴衣の音の足跡(12)子守唄

 わらべうたと同様に、桃山晴衣が非常な関心をもっていたうたが子守唄である。わらべうたは男女ともにうたう子どものうたであるが、子守唄は子守りをする守り子や母親、つまり女性のみがうたった特有の唄であるということも、彼女にとってより魅力だったにちがいない。また、わらべうたと子守唄のうたそのものは、はっきりと分けられるものでなく、ときにわらべうただったものが子守唄になったり、その逆もありえるし、民謡なども両方のうたに入り交じることもある。まさに小泉文夫氏が「わらべうたにも、ちゃんとした音階やリズムの法則があり、それがおとなの民謡や芸術的に発達した邦楽にもつながっている」という、日本の伝統音楽の根底にある一貫した日本独自の法則性がこれらのうたには見られるのであるから、日本のうたを追求する桃山にとっては欠かすことの出来ない世界だった。

 小泉文夫氏が『おたまじゃくし無用論』を出版してわらべうたの重要性を訴えていた頃、詩人の松永伍一氏が1976年に自ら取材・構成した『にっぽんの子守唄』(ビクター)という、全国の子守唄を収めた四枚組のLPボックスを発表し、その二年後の1978年には民俗学的アプローチとして『日本の子守唄』(紀伊国屋書店)と題する著作を出版している。当時二十代だった松永氏は一年間にわたって北は青森から南は熊本まで歩き続け、三百編ほどの歌に出い、これらの歌から、単なる「事実の記録」ではなく、「生き方の底を流れ漂っている音楽の本質を出そうと試みた」という。そして彼がこの旅で知らされたのは子守唄が、子どもを寝かしたり、遊ばせるだけのうたではなく、「自己愛撫のうた」でもあったということだった。でなければ、子守唄をうたってくれた老婆たちが、「七十年もそれ以上もそれを懐にかくしもってはいなかったのでしょう」と、まさにうたの持つ力に感動されている。またこのような老婆たちがうたう子守唄には当時の社会状況を反映した唄が少なくなく、庄屋の家に職業として「子守り」に出される七、八才から十二、三才までの娘の守り子唄や、”間びき”を唄った子殺しの唄まで、日本独特のうたの背景が浮かび上がってくることも力説されている。

【松永伍一氏の著作とLP】
 桃山の書棚にはこれら松永氏の著書とLPが収められており、松永氏がこれらを発表された頃、訪ねてみたいといっていたが、実際にお会いしたかどうかは聞いていない。しかし、わらべうたを探して全国を旅していた桃山がこうした子守唄を見逃すわけはなく、彼女もまた各地の子守唄を婆サから多く教わっている。この時代、松永氏のようにこうした日本のうたが消えてしまうことに危機感をいだいていた人は少なくなかったと思う。先の名古屋の加藤政次氏や我が郡上でも同じ頃寺田敬三氏が自転車に録音機を積み、郡上一円の民謡、わらべうた、子守唄、盆踊り唄、作業唄、神楽などを収録して回っている。この記録は幸い消滅寸前だったテープを私と桃山が編纂し、『郡上のうた』(日本伝統文化振興財団)としてCD化し、なんとか後世に音源を残せたが、このように全国各地にこうした唄はキラ星のごとく輝いていたはずだ。私たちが郡上に移り住んだ理由の一つは、こうしたうたの達者、芸の達者が暮らしておられ、実際に彼らからうたや芸能を教わり、それらを踏まえて彼らと一緒に創造ができたからである。子守唄についてはいろいろと述べたいこともあるが、ここで桃山晴衣ならではの子守唄の会について触れておこう。

 1977年9月15日、名古屋の日泰寺で桃山は初めて公的に「子守唄」をうたう会を持ったという。それは当時、彼女が民衆歌を研究するために明治大正演歌の創始者添田唖蝉坊の子息であり自らも多くの演歌の作詞・作曲を手掛けていた添田知道氏について学んでいたことから、派生した記念すべき会であった。演歌は歌謡曲の代名詞のようになってしまっているが、ご存知の通り、もともとは明治から大正にかけての弾圧的な国の政治、為政者に対して、虐げられた民衆の代弁者として立ち上がった社会主義者アナーキスト達が、直接の抗議演説を街で繰り広げるのは困難だったため、うたにして政府の目をくぐり抜け、民衆にメッセージを伝えようとしてわき起こった演説歌だった。これが時代の流れとともに酒や、女や、北国の枕詞でイメージされる昭和演歌へと様変わりし、当時のうたとはまったく意味の異なるものに成り果ててしまっているのだが、桃山はこの明治から昭和にかけての民衆歌の変遷にも興味を示し、その直接の指導者でもあった添田知道氏から多くを学んでいたのである。
 その添田氏との縁で生まれた「子守唄の会」、これは長くなるが、桃之夭夭に送稿された岡田孝一氏の文章をそのまま紹介したい。
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仏殿に流れる鎮魂の子守唄 <橘宗一少年墓碑保存会の集まり>
                         岡田孝一


 いつもは荘重な読経の声が流れてくる覚王山日泰寺名古屋市)の本堂に隣する客殿、普門閣から、この日は静かな悲しい調べの子守唄が、きれいな透きとおるような声で聞こえてきた。九月十五日午後、この日日泰寺の墓地で橘宗一少年墓碑の墓前祭が開かれ、つづいての懇談会で桃山晴衣さんによって、橘少年への鎮魂の子守唄がうたわれていたのである。

日泰寺の橘少年鎮魂会で/左から桃山晴衣大杉栄の遺児、菅沼幸子さんと野沢笑子さん】
 橘宗一少年の墓碑というのは、関東大震災の際、大杉栄伊藤野枝と共に憲兵隊において甘粕大尉らに虐殺された甥の橘宗一(満六才)の墓を、当時米国ポートランドに在住していた両親の橘惣三郎、あやめ夫人が建立したものであった。戦争中から戦後にかけての長い期間、全くの無援墓となって、墓地の一隅になかば草にうずまるようにして忘れられていたのが、偶然のことから発見され、昨年、社会主義運動の先覚者堺利彦の長女で、婦人運動の草分けでもある近藤真柄さんを代表に、荒畑寒村氏や全国のアナーキスト系の人たちを中心とした発起人、地元の労働運動、婦人運動の関係者の骨折りによって保存会がつくられ、墓碑も立派に修復されて、虐殺された日の前日である九月十五日に毎年墓前祭を行うことが決められた。墓碑の表面には「吾人は須らく愛に生くべし、愛は神なればなり」とクリスチャンであった父惣三郎師らしい言葉であるが、この人にして裏面には「宗一ハ再渡日中東京大地震ノサイ大正十二年(一九二三年)九月十六日夜、大杉栄伊藤野枝ト共二、犬共二虐殺サレル」と父親のおさえがたい無念の言葉がはげしい思いとなって刻み込まれていた。このことは当時大きな反響をよんだのであるが、私たちは再びこのような痛ましい国家権力の悪を許すまいとする決意をこめて、この墓碑の保存にあたっている。
  
                【橘宗一少年の墓碑】
 今年の集まりには桃山晴衣さんが添田知道氏のもとで、ずっと明治、大正の演歌に取り組んでこられたのと、子守唄、わらべうたにも関心を寄せられていることを知って、なんとかこの席でうたってもらえないかとお願いしたところ、幸い快諾を得てこの企画が実現することになった。会は大杉の遺児である菅沼幸子さん(二女)野沢笑子さん(三女)や、野枝の実弟にあたる武部清氏らの出席もあり、代表の近藤真柄さんの挨拶についで、まず宗一少年の鎮魂のために、晴衣さんによって五木の子守唄、豊後の子守唄、江戸子守唄の三曲が三絃なしでうたわれた。会場にピーンと緊張感がみなぎり、聞くものの胸にあらためて痛恨の思いがしみとおって行くようであった。

写真右【近藤真柄さんと桃山晴衣】 左【子ども時代の堺(近藤)真柄さん、父の堺利彦と母の為子と】
 このあと、同志社大学前総長の住谷悦治氏、野枝を描いた「美は乱調にあり」の作家、尼僧姿の瀬戸内晴美氏が挨拶し、再び今度は晴衣さんの明治、大正期を偲ぶ演歌を聞くことになった。すでに東京の寒村会などで桃山さんと顔見知りの人たちも何人か出席しており、また戦前のことを知っている古くからの活動家も多かったという関係あるかもしれないが、晴衣さんの三味線にのせてうたう演歌の一つ一つが、実に自然な形で聞くものの中にとけこんで行くのがよくわかった。一人一人がなつかしげに首をうなづかせ、あるいは小声で歌詞を追い、静かに手拍子を打ち、最後は現代の世相をも痛烈に風刺している「ノンキ節」を全員が晴衣さんと一緒にうたって、なんとも言えぬよい雰囲気であった。子守唄も演歌もこの時は響きあう心の唄であったと思う。会の終わったあとも、晴衣さんはあちこちでつかまって、楽しげな話しがはずみ、出席した約八十名の人たちによろこんでもらうことができた。
 数日前までは台風による大雨で、この地方も洪水の被害があり、晴衣さんはその中を東京から帰ったばかりで、大変つかれており、仕事の日程もつまっているのを無理して、大奮闘していただきました。そのためか少しやつれた感じがしましたが、しかしそれもまた楚々とした風情で美しいものでした。厚く感謝します。ご苦労様でした。