桃山晴衣の音の足跡(17)小唄の流れ

 ぐずぐずと 泣きごと云うなよ 命があらば
 復興するのも うでひとつ

 これは関東大震災のときにうたわれたという「復興節」の歌詞。先に演歌の「復興節」を紹介したが、この同名のうたは小唄である。
 小唄で大震災の唄がうたわれていたとは思いもよらなかったが、この唄は桃山晴衣ご意見番であった英十三氏が磯辺東籬氏と監修した『草紙庵の小唄 解説集』(江戸小唄社)に紹介されている。

      <吉田草紙庵>
 草紙庵とは吉田草紙庵(1875年〜1946年)のことで、大正から昭和にかけて活躍した小唄作曲者、特に「芝居小唄」「歌舞伎小唄」の創始者としてしられている人物である。父祖代々の左官職で、父次郎の次男、本名吉田金太郎といい、幼少の頃は松永鉄十朗門下で長唄をやり、16才で初代清元菊輔の弟子となって清元菊之輔を名乗るも引退し家業の左官職に戻る。以来、余暇に小唄の作曲を試みるが、この小唄作曲に力量が発揮され、没年までに300曲近くの小唄が作られたばかりか、題材に人気のあった歌舞伎狂言を取り入れ新たな世界を作り出した他、小唄を四畳半から大会場の演奏会に、さらにはレコードにと、今日の小唄隆昌に導いた一人となる。なお草紙庵というのは彼が習っていた茶道裏千家藤谷宗仁から受けた茶の雅号である。
 先の大震災の小唄は、「草紙庵夜話」の章で草紙庵自らが唄の説明をしている中に登場するもので、この文章には彼の江戸っ子気質がよく表されている。
「震災後間もなく、土片づけをする人達が、こうした唄を口づさんでいたのを、ききませんでしたかね。よくやってましたぜ。そう、震災にやけ落ちて、まだ半月とはたっていませんでしたな。焼トタンの上にすわって、その玄米のむすびで腹具合を悪くしている真最中、日頃小唄でもやっていた連中がこのさい、だまってちゃ気がきかネェ。一つ働く人に勢いのつくものをつくりあげようじゃないか。というのでできたのが、これこの復興節。復興という字をつかったのは、これが一番早うございました。でまァ小唄というよりは、一種のりゅうこう歌、なかなかひろまりましたぜ。原作は光丸さん、節づけが空声さん、手づけが私、なにしろ三味線はなし口三味線、鼻歌、刺子姿でのお稽古」
 こうして出来た震災小唄は、一夜明けてバラックお茶屋で、振りがつき、鳴りものが入り、やがては組になって翌年には練りだして大人気。歌詞は十二通り作られたという。そしてこれを機に平岡吟舟翁が自作自調の「春の番附」を発表。

 東西東西、御免をこうむりここもと去年の九一の地震火事過ぎて、あとから景気よく売り出た品の春の番附
 ボンボン時計は西の関、メリンス友禅東関、続いて関わき小結は、牛どんぶりや金つばやき、こわめし、まんぢう、やすじるこ、十と五銭のコップ酒、性の知れないカツレツと、のどのぴりつくライスカレー、夜具と布団の野天売、モジリ、スエター、半ゴム靴、がたがた建具にトタン板、屑糸めいせん偽せ大しま、番がすすんで打ち出す太鼓の音さえびくついて、ドーンがらがら桑原桑原万歳楽

 「後世、大正の代の研究をなさる人に、いい参考になりましょうよ」と、草紙庵が紹介したのが上記の吟舟による震災の唄。草紙庵はこの平岡吟舟に東明節を十二、三年習っており、清元と東明節が彼の小唄のバックボーンとなっているようである。
 ところで桃山晴衣の父、鹿島大治氏の祖母が習ってもいた平岡吟舟と東明節についても少し書いておこう。

    <平岡吟舟>
 平岡吟舟(1856〜1934)は明治大正時代の実業家で、本名を平岡煕(ひろし)。明治四年16才の時に渡米、汽車車輌製造技術を習得して、明治十年に帰国、車両製造工場を起して巨利を得る。また米国からはじめて野球、ローラースケートなどのスポーツも輸入した他、邦楽各流各派の大パトロンとなり、自らも河東節、一中節の名手となり、舞踊、三味線、特に笛の名人で、小唄の作詞、作曲にも秀れた才をみせ、花柳界でよく遊んだ大通人平岡大尽の異名を持つ。このように幅広い邦楽の見識をもとに、ちょうど四世吉住小三郎(慈恭)が三世稀音屋浄観と長唄研精会を設立した明治三十五、六年頃、江戸趣味の伝統的声曲諸派の粋を集めて吟舟が創始したのが「東明節」。東明節は芸格の高い粋人が作った曲節で、十分前後の小品が多く、小唄同様に当時の人達を魅了した。なお東明節は昭和五年に東明流と改称し、現在は門流の名取名には唄方に舟、三味線方に吟の字を冠している。吟舟は東明節として一流をなしたが、彼の能力はその一流に収まらず小唄の作詞作曲でも多くの秀作を残しており、先に紹介した地震直後の作品「春の番附」や「雪のだるま」「半ぞめ」等々、その数も少なくない。
 ところでこの吟舟が生まれたのは安政3年(1856)、あの安政の大地震の翌年で清元お葉が江戸小唄を誕生させて間もない時である。いわば江戸小唄とともに誕生した人ともいえ、江戸のお葉、明治の吟舟、そして大正の吉田草紙庵と続く小唄の伝統と革新をみていくと、現代の日本人が持っている小唄のイメージが何ともいびつなものであるかが分かるであろう。
 ここでもう一度、英十三氏の説を参考に小唄の流れについて振り返っておく。
清元お葉が江戸小唄の創始者であり、その背景については先のブログで説明したが、明治期に入ると、富豪の通人、花柳界の人々の間に小唄の愛好者が多く出てきて、上方系の端唄まで江戸小唄式でうたわれるようになり、内容も男女の情痴話ばかりでなく、洒落、悪摺風(ゴシップ)、風刺、辛辣さなどをもりこんだ唄も増えてくるが、こうした変化が目立ったのが明治の中期から末期にかけてで、英氏はこれを「小唄の完成期」と考えている。
 以下、この完成期の小唄を標準にその変遷の特徴を、英十三氏の説に従ってまとめてみた。
1 歌詞が短章で唄のテンポが早い。端唄も歌沢も歌章は短かったが、テンポの速さは小唄に劣った。その理由は小唄が三味線の間に唄をもり込んでいくことが因で起こる差で、一時期小唄は早間小唄ともよばれていた。
2 歌詞の取材の変化が大変広くなり、唄に変化がでてきた。(江戸向き、上方系、地方の俚謡、演劇映画小説から時の流行までをとりいれた歌詞)
3 明治から大正中期以後にかけて著しく唄の数が増えていく。(大正初期には245章だった唄が500以上に増え、今日では1000章を越えるのではないか。(これは端唄、歌沢でうたわれた歌を小唄の手法でうたうようになったことも一因としてあげられるが、吉田草紙庵、春日とよ、佐橋章子、永井ひろ他、多くの作曲家による夥しい新作が登場したことが第一因)
4 近世の小唄愛好家の増加の因としては、ラジオの放送、レコードの吹き込み、小唄振りという舞踊との結びつきなどが考えられる。

 このような変遷を経て、小唄は一般大衆に支持される唄となっていったのだが、またまた関東大震災の後、何派と称する家元のようなものができ、何十もの流派がたてられたが、日も浅く家元の方の吟味とその流派の新曲が他に行われていない程度で、各流派の差は説明するに足りないと、英氏は述べている。  
 そして「通人粋師や腕の良い師匠の手に練り上げられたものだけに、渋く辛い中に所謂、小股の切れ上がった小唄は、取材が広く変化が多いと同時に、現代人にも適応するところがあるのだろうと思われます」と英十三氏は締めくくっている。