桃山晴衣の音の足跡(19)1960年代から70年代の日本音楽迷走期

 「晴衣さんを見ているとパリのシャンソンと江戸の小唄の似ているところがわかるような気がする。もっともシャンソンは叙事的なものが多く小唄は情緒的だが・・・。どこの国でも同じようだが、唄はふたつの大きな流れを持っている。文学としての歌詞による区別だが日本でも叙事詩としての謡曲、琵琶唄、浄瑠璃浪花節、民謡中の音頭などと、叙情詩としての長唄、端唄、小唄、民謡中の佐渡おけさのようなものなどである。小唄は徳川時代の中期以後に大都会の町人の中で形作られ大正デモクラシーの時代に今日ある諸派の多くができた。唄のテンポが早く、大声をあげず三味線の爪弾きを伴奏にする。そういう点、粋でしゃれ気があってパリ下町のシャンソンに共通するものがある・・・。(中略)
 大衆芸能というと、今日では古めかしく俗っぽいものを指すように感じられる。事実、そういうものが多い。だが、晴衣さんの小唄はどちらかというとインテリ好みで非大衆的ですらある。それは、日本の大衆のうちに迷信や異様な新興宗教が栄えたり、まだ軍国日本を夢見ているものがあるおくれが、洗練された江戸小唄をインテリ好みにしているのである。いつの日か、日本の大衆が七月十四日のパリ市民のように起ち上がるとき、晴衣さんの小唄も民族的な芸能として、大衆のものとなるだろう。そういう日のために、晴衣さんのような若い人が小唄を育てているのは素晴らしいことだ」

<加太こうじ桃山晴衣 60年代>
 これは「黄金バット」などの紙芝居作家および評論家として知られる加太こうじ氏が1964年に「明日の小唄のために」というタイトルで雑誌に発表した文章である。が、当時の日本社会は大衆そのものが急速に大きく様変わりしていく時代だった。とりわけ1960年代は64年に、日本で初のオリンピックが東京で開催され、2年後の66年には同じく東京でビートルズの武道館公演が行われるという、いわばこれまでにない、世界のスポーツの祭典と、世界のポピュラー音楽の祭典が、東京でたてつづけに行われた時代だった。また日本が高度経済成長に向けて猪突猛進しだしたこの時代、安保紛争やベトナム戦争沖縄返還と反米運動が学園紛争と重なり、団塊の世代といわれる若者たちが国家、学校、社会制度、権力などなどに反旗をかかげて、70年代に突入してもいった。ちなみに、66年のビートルズ初来日と同年に、現在皆の関心が集中している日本初の原子力発電所が、茨城県東海村に建設されたことは記憶にあるだろうか。
 とりとめもないような話しの展開になるかもしれないが、桃山の本を整理していると、贈呈本の中に作家で評論家の竹中労氏からのものがあった。桃山は竹中氏とTV番組で一緒になったことがあるといっていたし、おそらく加太こうじ氏との繋がりから知己を得たのかもしれないが、送られてきた本の中に竹中労責任編集、音楽ジャーナリスト共同執筆『THE BEATLES REPORT』と題した小冊子があった。

竹中労責任編集:The Beatles Report>
 これは66年にビートルズが初来日してから12年後の1978年に出版されたリプリント版で、労氏いわくところの「ビートルズ来日のすべてを、刻明に、そして正確にえがいたレポートである」らしい。その大見出しをみると、「ビートルズ102時間」「来日の舞台裏」「大衆狂乱(マス・ヒステリア)の開幕」となっており、あらゆる角度から津波のように日本を襲った60年代のブリティッシュ・ロックの背後に蠢く真実を取材し、報告したレポートで、ポピュラー音楽とは、さらに日本音楽とは何かを考えるうえでも興味深いものがある。
 あえて竹中労氏が責任編集となり、七人の音楽ジャーナリストが名をあきらかにせずに記したというこの報告書の末尾には以下のような竹中氏の言葉が並ぶ。
 「これは、ビートルズ来日のすべてを、刻明に、そして正確にえがいたレポートである。七人の音楽ジャーナリストの共同労作だが、その名前をあきらかにすることはできない。それは、多くの真実がえんりょえしゃくなく、しかも、怒りをこめて書かれているからだ。戦後最大のマス・ヒステリア(大衆狂乱)といわれる、ビートルズの来日にはドス黒い舞台裏があり、狂乱を演出する“闇の力”がはたらいていた。その真相を書かなければ、音楽記者として存在する理由がないという、せっぱつまった思いが、この匿名のレポートを生んだ。私は、ただ、責任の所在を明確にするために名を出したにすぎない。できるだけ多くの人々に、とりわけビートルズ・ファンである少年少女諸君に、この本を読んでほしい。そうすれば、日本のおとなと子供の間には、どんなに遠い距離があるかということがわかる。そして、正しいのはあなたであり、それを理解しているおとなも少しはいるのだということがわかる。あなたがたに読んでもらわなければ、私たちがこのレポートを書いた意義は失われるのである」

ビートルズ公演開演前の武道館、G8サミットさながらの一糸乱れぬ警備隊>
 文中にあるように、これはビートルズの音楽を云々した書ではなく、彼らの来日に際しての「ドス黒い舞台裏」と「狂乱を演出する“闇の力”」を浮かび上がらせようとしたもので、なにかこれ以後の日本の社会、ひいては文化状況を暗示するような音楽事件簿ともいえる書である。
 ここで竹中氏がドス黒い舞台裏という、そこに跋扈するのはマス・ヒステリアとなったビートルズ・ファン(その大半は女子学生や10代の女性)を、不良、非行少女と決めつけ、それを阻止するという名目で組織された武道館周辺、ホテルに立ち並んだ2250名におよぶ前代未聞の警察、警備隊の異常な群れ。そしてこれまでにない収容人数をマネージャーから要請され会場となったのが武道館、公演はたったの30分、日本の音楽家による前座が一時間という異様なコンサート。当のビートルズはホテルとこの会場を車に監禁され誰の目にも触れないような警備の中を行き来するだけ。音楽評論家、ジャーナリストは会えない、聞けない毎日で無能ぶりを露呈するだけ。あげくの果ては、警察ともみあう若者にカメラが向かい、取材の矛先が変えられてしまうお粗末。この背後には放映独占権を獲得したTV業界、武道館、新聞社の思惑などが多く渦巻いていて、ビートルズサイドのマネージャーの巧みな操作も加わり、こうした政治的、権力的ともいえる大人たちのドス黒い世界と純粋で熱狂的な若い音楽ファンの間に大きな亀裂が生じた。まさに当時の学園紛争の構図を映し出すかのように。
 またこの時期、女子はビートルズを追っかけ、男子は自分たちでエレキをもちベンチャーズグループサウンズに憧れて演奏に興じ、その後、世界に響かない日本製ロック、フォークグループが次々と現れては消えていくという現象が起きてゆくことになるのである。
 同じ頃、二十になったばかりの桃山は、こうした巷の狂乱を他所に、1961年に父、鹿島大治氏を後見人として、桃山流家元を立て、その才が岡本文弥氏の「芸渡世」に菜美子という名で登場し、そこから1963年の『思想の科学』で安田武が「二十三才の家元、桃山晴衣」という論文を書き、彼女の名は邦楽界以上に文化人の間で広がっていった。が、この年、彼女はさらに芸を磨くために幼少の頃から好きだった宮薗節を本格的に習得したいと思い、四世宮薗千寿の元に唯一人の内弟子として入門するのである。そして十年後には自らの家元を捨て、宮薗節の名取りでありながら宮薗からも後髪を引かれる思いで師と別れ、独自の世界を邦楽界とは無縁の若い人たちと築き上げていくのである。彼女は明治人の父から音楽の素養を叩き込まれ、ご意見番としてほとんど明治人の文化人に取り囲まれていたし、三味線の師匠も明治人の宮薗千寿と、江戸時代からの日本音楽を体で受け取ってきた稀なる若き女性だった。そんな彼女が邦楽界から飛び出て、同時代の者に向けた桃山晴衣の音楽を展開しようとしたとき、世間は先の竹中レポートにあるビートルズ旋風に巻き込まれた若者がほとんどで、桃山は一人茨の道を歩む運命を背負っていくことになるのである。
 彼女は亡くなるまで自分がなぜプロの音楽家にならなければならないのか、疑問に思っていた。子供の頃から三味線を弾き、うたったのはうたが好きでごく当たり前のことだった。そして家元で三味線を教え、歌っているときも、プロの意識などもうとうなかったという。十年におよぶ宮薗節の内弟子時代、それと平行して開いて来た「於晴会」での演奏会も本当に少数のうたの好きな人たちと会をもつ、興行とは無縁のものだった。うたを媒介とし、人と触れ合えることが何よりも好きだった。そんな彼女がそれまでの人たちとは異なる社会の人たちに向けてコンサートとして演奏を展開しだしたときから、必然的にプロということをまわりから言われて考えざるをえなくなったのだ。
 再び竹中労編集の「THE BEATLES REPORT」にもどると、ここにポピュラー音楽のことについて書いた文章がある。興味深いところを少し長いが抜粋してみよう。
 「戦争に敗れた日本では、音楽どころの騒ぎではなかったが、ダニエル・J
ブーアスティンのレポートによれば戦勝国アメリカが終戦の1945年だけで、実に二億二千五百万枚のレコードを売っている。このレコード市場の拡大を示す数字は、同時に、音楽の形式すら完全に分解し、変形させてゆく、確実な力となった。その分解と変形が進行してゆく過程で、現在のポピュラー音楽は作りだされた。アル・ジョルスン、ビング・クロスビーフランク・シナトラエルビス・プレスリーは、それぞれの進行過程における里程標となった歌手である。そしてレコードの普及に伴って、分解し変形した音楽は社会のいたるところ、生活のいたるところに入り込んだ。このとき、その音楽は従来の音楽から、なにものかを失ったが同時にまた、なにものかも獲得したのである。「軽音楽」という言い方、ないしは見方は、その失った一面しか見ない偏狭さがあった。ポピュラー音楽は確かに従来の言葉が持っていた確固たる形式を失った。しかし、一方ではわれわれの音楽体験に、革命的な変化と刺激をもたらしたのだ。
 そして大切なのは、このような音楽の変化、ポピュラー音楽の進出が、音楽を供給するさまざまの商売を繁盛させ、その商売機構が、こんどは逆にポピュラー音楽をひろく伝播する力と化したことだ。ポピュラー音楽につきものの人気という怪物は、このコマーシャリズムの直接の所産にほかならない。
 やがてコマーシャルは音楽ではなく、人気を売るようになる。
 その結果は明白だった。ポピュラー音楽はその売られ方において、不当な音楽不在の状態におかれたのである。いいかえれば、ポピュラー・スタイルはポピュラー音楽界の商品にすぎなくなったわけである・・・。
 その一番売れている商品が、ビートルズといえるわけだが、では、この風変わりな商品を生み出したものはなんであったか」とし、日本には日本独自の防波堤となるポピュラー音楽がなかったのが一つの理由としてあげられている。日本のポピュラー音楽とは歌謡曲であろうが、かたやアメリカ、イギリス、その植民地圏の英語圏人口をみれば、日本だけしか日本語の通じない国の音楽が世界のポピュラー音楽に対抗できるなどもともとありえないし、このうたを媒介とするポピュラー音楽が、その後もアメリカ、イギリスの独占産業になっているのも当然だろう。レゲブームで突出したボブ・マレーの成功はジャマイカが英国の植民地で英語を公用語とするからである。こんな単純なことすらわからないので、60年以来、グループサウンズ、フォークグループ、JpopとAKB何とかにいたるポピュラー音楽界の人気ものたちが海外進出できないのは日本語という特殊なことばにあり、ピアノコンクールやクラシックの指揮者やジャズミュージシャンなど器楽奏者が稀に海外進出できるのとは大きく意味がことなる。
 しかし、こうしたポピュラー音楽とクラシック音楽という常に西洋音楽の枠の中でしか音楽を考えていなかったこの時代、しかも桃山のような若者が当時ほとんどいなかったという不思議な状況。そんな中で小泉文夫氏が世界には固有のいくつもの異なる民族音楽があることを一般に広め、ヒットしない音楽、民族音楽の素晴らしさを説き、日本の伝統音楽の素晴らしさを説き、おたまじゃくし無用論を説いたにもかかわらず、その声にすら真剣に耳を傾けた日本人がどれほどいただろうか。
 桃山はジャンジャンなどで桃山晴衣として、うたと三味線を用い、小唄、端唄、宮薗節、地唄、そして落語家との共演など、あらゆるうたと語りの可能性をさぐりつつ、自分の世界を築きだし、80年代初頭に中村とうよう氏のプロデュースで『弾き詠み草』『梁塵秘抄』『鬼の女の子守唄』の三作をレコーディングし、いちおうビクター専属ともなったが、彼女は「人気を売る音楽家」とは無縁であり、初めてコンサートを全国で展開した『梁塵秘抄』も同時代のジャズやロックしか聞いたことのない同時代の若者によびかけ会場探しからコンサートまで興行師をいれずに自分でやりとおすという、明確な姿勢をもっていた。そして私と活動を共にするようになった83年頃、彼女は、ビクターの専属といってもレコードを作るだけで、自分はレコードを作るために音楽をやっているのではないから、これ以上専属であることの意味はないと思うので断ってくるといって専属を止めた。
 60 年代から70年代にかけて日本を席巻した欧米のポピュラー音楽の津波。その象徴ともいえるビートルズ現象は竹中労氏のいうようにこの音楽をめぐって若者と大人の間に大きな亀裂を生じさせた。しかしこうした亀裂も、桃山からみれば同じ穴のむじなだったかもしれない。竹中氏がいみじくも「そして、正しいのはあなたであり、それを理解しているおとなも少しはいる」といった時代の、正しいあなた、つまり若者は、現在、「それを理解している大人」になっているだろうか。当時ビートルズのレコード売り上げが二十万枚というのが驚愕の数字だったが、いまでは日本の「人気を売る」歌手の売り上げでも、国内だけで十倍はいっている。さらにレコードではなく、若者は携帯で個別に好きな曲だけを聞くようになり、マス・ヒステリア現象こそみられなくなっているが、「ドス黒い闇」は形を変えてさらに大きく放射能のように彼らを包み込んでいるのではないだろうか。