桃山晴衣の音の足跡(9) 小泉文夫著『おたまじゃくし無用論』

 25日は昨日の演奏会とはうってかわった内容のレクチャー「桃山晴衣と日本音楽」を吉祥寺のサウンドカフェdzumiで持った。ここは少々日本音楽とはほど遠い欧米のフリー・インプロヴィゼーションやフリージャズなどをハイパーサウンドシステムで聞かせるこだわりのサロン風カフェである。店主の泉さんは私や桃山晴衣がよく出演していた池袋のスタジオ200や六本木のWAVEなど、西武、セゾン系の文化グループで仕事をしていた人で、桃山晴衣の音楽をアルバート・アイラーオーネット・コールマンなどと同じく、同時代音楽として聞いてきた人である。
 ところで桃山晴衣の音楽を語ることは、日本音楽史を語ることでもあり、その内容たるやこのような短時間のレクチャーでできるものではない。そこで今回は、桃山の書棚から選んだ一冊の本の内容に則して、彼女の音楽への取り組みについて話そうと準備をしていた。
 それが東京行きが近づいた頃、一本のVTRが見つかったことで大きく変わる。映画監督の吉田喜重が監修した「四季の女」というドキュメントシリーズの一本。「三絃ひとり旅」というタイトルで1978年頃、桃山晴衣が「婉という女」の創作を終え、「梁塵秘抄」にまだ手をつけていなかった頃の映像で、父、鹿島大治氏も少し登場する貴重な記録だ。しかしこのVTRがVHSではなく昔のソニーのベータシステムだったので、ずっと見られずじまいだった。ところが幸い、東京でこれをDVDに焼き直してくれる店があることを聞き、上京してすぐにそこへ駆けつけ無事にこの映像を目にすることができるようになった。私が桃山とパリで出会う三、四年前の、岐阜鵜沼に住んで活動していた頃のものだ。なんといっても嬉しかったのは最初から彼女の最も好きだった室町時代の復元曲「吉野之山」をうたっているシーンから始まり、三味線を弾き、うたうシーンがいくつも見られることだった。
 百聞は一見にしかず、私が長々と話すよりもこの映像を見てもらえば当時の彼女の日本音楽に対する強い意志が伝わるはずである。そこでサウンドカフェdzumiでのレクチャーは用意していたレジメのようなものも捨て、この映像を参加者にも特別に見てもらうことにした。それでも先述の桃山の書棚にあった一冊の本についての話しだけは、彼女の活動を考える上で是非とも伝えておきたかったので決行した。
  
 その一冊の本とは、民族音楽学者、小泉文夫氏の著書『おたまじゃくし無用論』である。いんなーとりっぷ社から1973年に初版が出てすぐ一ヶ月後に7刷の発刊となっているので、当時相当センセーショナルな本だったことがわかる。その後、青土社から小泉氏の著作集が出版され、その中にもこの『おたまじゃくし無用論』も入っていたが、それから小泉氏が逝去し、後に様々な形で氏の著作が出版されているが、この著作はなぜか陽の目を見ないままになってしまっている。
 私は、この「おたまじゃくし無用論」を小泉文夫氏の最も本音の書であると思っている。著書の全体を貫いているのは明治以来この方、日本政府によってねじ曲げられ、洗脳化されてきた音楽教育、しかも世界に類例のない西洋音楽を基準とした義務教育への熱烈な批判である。文章は一見平易でやさしい言葉で書かれているが、その内容は見出しを見ただけでも相当過激なものである。ここにその見出しを並べてみると、

(一)間違いだらけの音楽教育
1 音楽がきらいになるピアノ・バイオリン教室 2.学校のおたまじゃくし教育有害論
3.音楽に国境はある
(二)日本人の天与の音楽性
1.音痴はいない 2.歌謡曲がなぜ悪い 3.わらべうたは生きている 4.わらべうたの生命力 5.わらべうたの国際性 6.わらべうた以後
(三)音楽を好きにさせる音楽教育
1.幼児のために 2.児童のために 3,中・高校生のために 4.おとなのために

小泉氏にこのような本を書かせたのは、彼が世界に民族音楽を訪ね歩くうちに、各民族の生活と密着した生き生きとした歌や音に触れ、それが長い自分たちの伝統に根付いているということを自らの肌で感じ、日本に戻ってきたときこうした音楽が国家が制定した一律の西洋音楽の基準に基づいた義務教育によって、ことごとくなし崩し的に壊されてしまっている現実に直面したからだろう。
 ちなみに小泉文夫氏のプロフィールをみてみると、1927年に東京で生まれ、6,7才の頃から例にもれず家庭ではバイオリンを弾かされ、賛美歌をうたっていたという。そして23才の時、吉川英史氏の日本音楽史の講義で地唄の「ままの川」の実演を聞いて衝撃をうけるとある。その一年後、東大大学院に進学し、町田佳聲氏の『日本民謡大観』の採譜を手伝い、日本音楽に興味を深めると同時に、世界の民族音楽にも関心を広げていく。そして1956年、東大大学院修了後、翌年から二年に渡って南北インドの伝統音楽を音楽院で学ぶ。そして帰国後は世界の民族音楽の紹介に精力的に努めたり、日本伝統音楽の研究にも着手していたが、1961年に芸大の楽理科専攻科の実習で東京のわらべ歌を調査して以来、二十年間にわたってわらべ歌の研究を続け、これを基にした音楽教育をと文部省に訴え続け、挑んできたが、氏の理想は悉く無視され続けて来た。「私のように文部省の音楽政策にずっと反対し続けてきた人間が、文部省が管轄する芸大にいることがおかしいのだから、いつもポケットに辞表を入れている」と洩らしていたという小泉氏だが、以後は次第に学校教育の改革をあきらめるかのように、学校以外の分野で影響力を与えていく努力を続けていったという。
 60年代から逝去する83年まで、わらべうたを通して日本音楽を変革することを夢見て来た小泉氏が常にポケットに辞表を入れて戦ってきたもう一方のポケットに入っていた文部省への、そして芸大への抗議文こそ『おたまじゃくし無用論』である。この著書は一章が西洋音楽を基にした平均律、五線譜による音楽の義務教育がいかに馬鹿げているかを理路整然と述べ、二章、三章では、まさに彼が訴え続けてきた子供達への音楽教育の指針を切々と述べている。
 この著書が提出している問題はこれからの日本文化、とりわけ音楽を考える上でも私たち一人一人が避けて通れないものだし、グローバリゼーションという言葉が一人歩きし、民族や民俗といった固有の伝統文化がその大きな渦の中で急速に崩壊していく現代社会に生きる者たちにとって、これは決して小泉氏一人の問題ではないのである。
  
<わらべ歌を調査する小泉文夫>           <稀音家浄観
 それでは、なぜ桃山晴衣とこの本が関係あるのか。それは次回に述べるとして、この『おたまじゃくし無用論』と並んで桃山の書棚にはもう一冊大切な本があった。小泉文夫氏が若い頃に『日本民謡大観』の採譜を手伝わされた町田佳聲氏の聞き書きによる『長唄浄観』という本である。1949年発刊の半紙のような薄い紙に印刷され、紐で綴じられた古本である。この本がなぜ桃山のもとにあるかといえば、町田佳聲氏は桃山の父、鹿島大治氏と親交があり文通もかなりおこなっており、氏の手紙も残っている。おそらくは町田氏からこの本が贈呈されたのかもしれない。というのも、『長唄浄観』の浄観とは、桃山の大叔父である長唄の改革者、四代目吉住小三郎こと吉住慈恭師とともに研精会を結成し長唄を舞台音楽から聞く音楽へと発展させた三味線奏者の稀音家浄観こと稀音家六四郎師のことであり、この本には彼の自伝が書かれているからだ。

<中央の三味線奏者が稀音家浄観

桃山晴衣の大叔父、吉住慈恭>
 桃山と出あったときからこの三味線奏者の素晴らしさは聞かされていたので、この本が見つかったときはうれしくなり、さっそく目を通してみると、最初のページから『おたまじゃくし無用論』の中に出て来る人物と同じ名前が登場しているので驚いた。その人の名前は伊沢修二、明治十七年に芸大(東京芸術大学音楽学部)の前身である、音楽取調掛の御用掛となり、時の文部大臣に「西洋音楽と日本音楽には、根本的な違いはない」という内容の意見書を出し、それに基づき学校教育に西洋音楽が取り入れられるようになったとされる問題人物。この人物が『長唄浄観』にも登場するのだが、実はこの浄観師が十一才のとき、三味線の名手であった父、六代目杵家三郎助師が箏の山勢松韻師、尺八の荒木古童師と共に、当時伊沢修二氏が掛長を努めていた音楽取調掛に頼まれ通っており、やがて十二才になった浄観師が父に連れられてこの取調掛に行き、伊沢修二氏が作詞し父が作曲した新曲の三味線を弾かされ、これが試験でヴァイオリン科に入り、毎日馬喰町から上野まで歩いて通ったという。しかし「先生は外国人でしたが、お互いに言葉は少しも解りません。向こうも手真似でだんまりで教えますので、私の方もだんまりで教わっていたのです。さてこのままでずっとヴァイオリン稽古を続けていたらどんなことになりましたかな。エルマンやジバンリストと張り合いましたでしょうかな、それとも浅草の活動小屋でキイキイと擦っていたでしょうか、どうも運命というものは誠に予知できないものでして、入学して丁度丸一年、翌年の五月になると急に音楽取調掛を退めて芝居へ出るようになってしまいました」という浄観師、その後父はヴァイオリンを擦らせておくより三味線を弾かせておく方が無事と思ったのか、十三才で彼は中村座杵屋勝三郎の囃子で三味線を弾き、その後は吉住小三郎との出会いを経て長唄の改革者として活躍することになるのである。この音楽取調掛と伊沢修二、この名前が桃山の書棚に並んでいた二つの本の中に登場して来るとはなんとも意外だったが、まさにこの明治の音楽取調掛と伊沢修二という人物こそ、日本音楽を西洋音楽の基準で教育化した元凶ともいえる人物であり、今にいたってもこのとき以来はじまった悪しき音楽教育の流れは、小泉氏が必死で訴えていたにもかかわらず、全く変わっていない。浄観師がもしこの学校にとどまっていたら、私たちは吉住慈恭の長唄も浄観の冴えた三味線の音も聞けずに終わっていたかもしれない。小泉文夫稀音家浄観、この二人は桃山晴衣の音楽を考える上で切っても切れない人たちである。