神楽三昧の秋過ぎし
(和良町、戸隠神社での大神楽)
十月は神楽の月である。今年は郡上市で二つの神楽を見学した。一つは和良町の戸隠神社、もう一つは明宝町の白山神社(かつての明方村)で、ともに大神楽と伊勢神楽が奉納された。
郡上市には百余カ所で神楽が伝えられてきたという。それは郡上にいつ頃、どのように伝わってきたのか。そんな疑問に自ら答えを見いだすべく、郡上全域の神楽を60年代から70年代にかけて、自転車で野を越え丘越え、山越えて、できるかぎりの記録を残そう奔走した郷土史家、寺田敬蔵氏がいる。彼は、その成果を「郡上の祭り」として二巻にまとめている。以下、郡上の神楽についてこの本の解説を基に概説してみよう。(寺田敬蔵氏については以前のブログ「郡上のうた」で紹介しているので参照を。http://d.hatena.ne.jp/tsuchino-oto/20090423/1240490817)
郡上の神楽は春と秋に集中している。それは田の神が秋には山に登って山の神となり、春には山から里に下りてきて田の神となる農耕民族の信仰を基にしているからである。
里神楽ともよばれる郡上の神楽のほとんどは獅子舞神楽で、その奉納方法は二通りある。一つは神社を中心とする、村回りを行わない神楽。もう一つは神社を足場とし、村を巡り、報謝を受ける門付け的神楽。こうした郡上内の神楽を大別すると以下のようになる。
1 大神楽(大名行列や御輿御旅を伴うもの)
2 伊勢神楽(神神楽、芸神楽、大神楽と共に行われるもの)
3 かき踊り(大神楽と共に行われるもの)
4 奴踊り(大神楽と共に行われるもの)
5 その他(以上の神楽に属さない僅かのもの)
大神楽は東西呼ばわり、笛方、鼓方、獅子回し、舞子など、おおよそ二十名前後で構成される。これに幟、出し花、田楽持ち、宮役という神輿の供、大名行列の奴などが加わると相当数になる。
主役は獅子で、大神楽の獅子回しは別名「神楽回し」ともいわれる。獅子には悪疫災禍を払う力があり、神楽における舞いは雄々しくなったり女々しくなったりと人目を引きつけなければならず、回し方の力量が問われる。大太鼓は稚児化粧をし、金蘭・赤字・総柄の衣装を身に着けた子供たちが二人で交替して打ち、もう一人がササラを演奏する。鼓は鶏冠を冠り、笛方は一文字笠を冠った袴姿の大人が努める。獅子舞の始まりは必ず神官の東西呼ばわりが唱えられる。大神楽は神社境内で演じられるが、ここに着くまでに神輿の御旅や奴の行列等が加わり、道行きに大神楽が付くこともある。
伊勢神楽もまた獅子舞が主役である。大神楽に比べて楽人も獅子回しも少なく、大神楽が神社の境内広場で行われるのに対し、これは神楽殿のような舞台で行われるのが一般的である。郡上に伊勢神楽が流布したのはいつ頃か定かではないが、江戸時代に職業化した人達が村々を回って、段々定着していったというのが、「郷中盛衰記」などから察せられるということだ。今、郡上では伊勢神楽を行う村が減少し、大神楽の方が多くみられるが、以前はもっと多くの場所でみられたということである。その理由の一つとして芸が細やかで伝えるのが困難であると云うこともあるらしい。伊勢神楽の構成は笛方、太鼓方、唄い手、獅子舞、それに出花、田楽などを含めて二十人前後の規模でなる。また獅子舞は芸神楽、尾張で「嫁獅子」と呼ばれるものを郡上では伊勢神楽とよんでいる。伊勢神楽はいまでこそ減ってしまったが昔はこの芸神楽が多く見られた。そのわけは明治時代に神祭事の遊芸酒食が禁じられ費用の割当も禁じられた為に盆踊りや地歌舞伎などもこの時期できなくなっていったのであるが、芝居好きの衆が神楽にかこつけて芝居を取り入れた伊勢神楽に見せられたために多くの村にこれが流行したといわれている。
さて今年参見した二つの神楽は、一つが和良町、宮地・上沢の地区の合同神楽で、戸隠神社に奉納するもの。この神楽がいつ頃から当地に移入されたかは定かでない。おそらくは桑名あたりから伝えられてきたものだという書き物があったと云われているが、その書は見つかっていない。戸隠神社は和良最大の宮で、かつては九頭竜大明神と云われていたのが、明治初期から現神社名を名乗るようになったという。一説では和良村の法師丸という地区に戸隠社があってこれが併合され戸隠を名乗るようになったともいわれている。それゆえ、かつては宮地、上沢、法師丸の三つの地区が合同で行っていたが、今では法師丸地区はぬけている。
正午過ぎに戸隠神社に着くと両脇に幟が立ち並んだ神社正面山道の入り口辺りの御旅所の神事が始まっていた。御旅所には二地区の神楽隊の他、ヒゴ馬の格好をした若者たち、神輿神楽隊が集まり、まず二地区の神楽隊が一緒に並んで神楽を演奏。隊は子供の太鼓打ち、ささらすりを中心に大人の獅子舞、笛、小太鼓、鼓打ちから成っていた。この演奏が終わると一行は神社に向かって旅立つ。先頭は早くから耳をつんざくような音で神楽の録音テープを流していた「やま」と呼ばれる二台の山車。これにつけられた太い綱を子供達が引っぱって行く。続いて若者たちによるヒゴ馬隊、そして両神楽隊、神輿が続いていく。境内に入ると山車が左右に分かれて置かれ、ヒゴ馬が境内内を走って回る。この場ならしが終わると神輿と神楽隊が入場。神輿は拝殿に納められ、両地区の神楽が広場中央に位置し、伊勢神楽が両側に設置された神殿にそれぞれ配置する。拝殿での神事が終わるといよいよ大神楽が奉納される。これは獅子舞曲二曲の繰り返し。これについで山車でくり人形が上演され、伊勢神楽も両舞台で始まり、一つに集中して観ることができなくなる。大神楽は一早く引き上げ、伊勢神楽が続けられる。この伊勢神楽の踊り手が老齢にも関わらず獅子面をつけるとなんとも獣霊乗り移ったかのごときに迅速で軽やかな動きをみせる。獅子頭をつけて舞うこの達者を見ていて、ふと以前訪れたフランスの壁画洞窟に描かれていたバイソン(野牛)の頭をつけて踊っている旧石器時代の線刻画を憶い出す。人類の芸能の本源は何万年も前から変わらぬものなのだろう。四人の古老が奏でる笛の響き、渋面の太鼓師が打つ湿った皮膜の韻、にわかを交えて御神楽を舞うおカメ姿の演者が手したかろやかな鈴の音。四方を山に囲まれた長閑な村の中で行われる年に一度の祭典。子供から年寄りまで村の衆が寄り集まり、誰に見せるのでもなく、演じられる神楽はまさに鄙びたというにふさわしい芸能である。鄙というのは村や里を意味する言葉で、賑々しくもゆったりとしたこれらの神楽が里神楽と呼ばれる由縁である。人間が長年かけて自然と共に暮らした生活の中から産みだしてきた里神楽は、なにもかも機械仕掛けの騒音やリズムの中におかれてしまっている現代人に、忘れてはならないも多くのことを語りかけている。
もう一方、私が馳せ参じたのは我が立光学舎の横を流れる吉田川を遡り源流近くにある明宝町(かつての明方村)奥住の白山神社で奉納された神楽である。これは明治十年に同町の畑佐から伝えられたと云われ、一時途切れていたが今では復活され毎年行われるようになった。白山神社は全国にみられる神社で、郡上は北陸富山と並び、白山信仰の山、白山への美濃番場登山口として古くから栄えた場所で、至る所に白山神社が鎮座している。奥住の白山神社は戸隠のそれとは対照的に山里の小高い山腹に設けられた小さな神を祀る祠と、その側にほとんど装飾のない拝殿が立ち並ぶだけの素朴なたたずまいを呈している。鳥居をくぐり石段を登って境内に着くと、村の衆に交じって中高年の写真愛好家達が多く見られた。ここでは伊勢神楽が拝殿で最初に上演されるため、そちらに目をやると見たような男が獅子頭を横に黒い着物姿で出番を待っていた。なんと、立光学舎で上演した「幻の帰雲城」に出演してくれていた伊藤君で、その時同じく出演してくれた弟も笛方でここにいた。あの頃、伊藤君は神楽の継承が難しいという話しをしていたが、今では伝承者であった祖父から踊りや楽を口伝で習い、何とか今日まで伝えている。以前は土木関係の仕事についていたと思うが、いつからか岐阜バスの運転手になっていて、ときおり岐阜から郡上まで彼の運転で帰ることもあったが、彼が一人で毎年伊勢神楽の舞いを続けていたことは知らなかったので驚かされた。「幻の帰雲城」は立光学舎で上演した後、岐阜県の国民文化祭のメインイベントとしての上演依頼があり、その時は高雄歌舞伎の名優達がどうしても出演できないことになり、急遽二人の殿様を代役で上演した。その一人が伊藤君である。立光学舎での「帰雲城」は、ほとんど台詞のない脇役だったが、ここでは台詞ばかりの殿様役に抜擢され、演技も台詞も全く初めてのことだったが、彼の真剣さに桃山は大丈夫だろうと、稽古を続けた。仕事を終えて学舎におそるおそる来ては高雄歌舞伎の役者や桃山から振りや台詞まわしを教わるうちに、やがて声が潰れて出なくなってきた。仕事の合間をみて大声で台詞を何度も繰り返し練習していた結果らしい。この熱心振りが当日、素人とは思えぬ堂々振りに変わった。もう一人、役場に努めていた細川君ももう一人の殿様役にこの時、抜擢された。彼は私たちが立光学舎を設立する際から、ドンの和田憲彦氏の推薦で何かと協力をしてくれていた人だが、「伝でん奥美濃ばなし」の二作目「高賀山鬼伝説」の時から、始めて笛方になり、そして「幻の帰雲城」でも笛方や裏方をやってくれていたが、急遽岐阜の公演で伊藤君と共に俳優として殿様役をやることになったのだ。普段はほんとうに控えめで優しい男なのだが、役者になった彼は見違える程の大声で演技に徹し、これには桃山も驚いていた。彼はその後、役場の仕事を続けながらも自分の住む地域の誇りでもある高雄歌舞伎の役者としても活躍したし、今では三味線や唄でも出演し、地区の郡上踊りお囃子倶楽部でも唄と三味線、笛にと活躍し、芸能三昧の日々を送るようになっている。先に紹介した高雄歌舞伎の人達と同様、この細川、伊東兄弟らが、地域に踏ん張って自分たちの芸能を伝えていこうとしている姿は、なんとも頼もしく感動的でもある。
横道にそれてしまったが、奥住の白山神社では伊藤君の舞いによる伊勢神楽がまず上演されるのであるが、この神楽は弟の伊藤君ともう一名を加えた笛方二名と、太鼓が一名、そして唄方の二名を伴う。この伊勢神楽は明治22年頃に関の白金から伝えられたと云われ、小保木では新楽舎としてこれを伝承した。当時は外題物を多く上演していたので人気があり、同村の小川、日出村、気良、二間手、畑佐などにも出向いて上演していたそうだが、今では外題ものをやれる者がなく、おそらくは幕昇殿とよばれる舞のみが行われるだけになってしまっている。これは着物姿に獅子頭の舞手が鈴と御幣を手にして舞い、悪魔払いや太平楽を舞うもので、御幣と鈴を使った曲芸的な技を見せる。
この伊勢神楽に続いて境内で大神楽が奉納されるのだが、これは戸隠神社の大神楽同様、子供の太鼓打ちと大人の笛、鼓、獅子舞から成る。今各地の村が人口減少で子供不足となって、子供の太鼓打ちの数もままならぬ状態、戸隠では少女の数が少年に上回っていたが、ここ奥住では全員が男の子で行われていたため動きがよりキビキビとしていた。両神楽は小一時間のうちに終わってしまい、人の去った白山神社に再び静けさが戻って来る。もし、このささやかではあるが厳粛さを秘めた神楽の奉納がなければ村の衆は年に一度さえも顔を見ずに終わってしまうに違いない。昔は年に一度、神と出会うのが祭礼の日だったが、今は年に一度村の衆と出会えるのが祭礼の日かもしれない。確かに祭りは意味を失い、神楽の継承も難しくなりつつある。しかし、この最後の生命線ともいえる芸能が消滅する時、人は心の拠り所をなくし、あらゆる繋がりが絶たれていくだろう。東日本大震災が発生し、「絆」という言葉が何度もジャーナリストや芸能人よって発言されている。明治時代から鄙の地、村々では国家の弾圧で芸能が厳しく制限されたにもかかわらず、時に芝居を外題として伊勢神楽に転化し、獅子舞にカモフラージュし、検官の目を盗んで盆に唄い踊り、高雄歌舞伎のように何があっても歌舞伎だけはやり抜いてきたといったような気概溢れる衆がいた。そして密かに守り伝えぬいてきたこれらの芸能が長年のうちに目に見えない「絆」となって作用してきた。「絆」は一朝一夕にできるものではない。芸能に携わってきた鄙人はそのことを誰よりも知っているだろう。
「昔は祭りを大切にする村は栄える」と聞かされたと先に紹介した寺田敬蔵氏は云っている。真に村が栄えるとはどういうことなのか。含蓄のある言葉である。