桃山晴衣の音の足跡(2)

昨日は彼女が書き残してきた貴重な文章が集積されているいくつかの機関誌について少し紹介してきたが、この機関誌には桃山自身の他にも多くの貴重な人たちが執筆したり、インタビューに答えたりしている。今日はその中から復元曲に関するものを取り上げてみたい。桃山は19才の頃から、父、鹿島大治氏の後見で桃山流の家元として多くの人たちにうたや三味線を教え始めている。そして22才の1961年5月26日に、桃山流創立記念演奏会として、愛知文化講堂で1700人を収容する初めての大演奏会を催す。この時の後援者には作家の長谷川伸、徳川義親、評論家の英十三など錚々たる人たちが参画しており、いわば邦楽を知り尽くした人たちを前に二十歳をすぎたばかりの桃山晴衣が師匠然として演奏するという、なんとも勇気のいる出来事だったにちがいない。このときの様子は自著「恋ひ恋ひて・うた・三絃」(1986年筑摩書房刊)にも記しているので一読してもらうことにして(といっても、こうした貴重な本もすぐに廃刊となって、手に入らないのが現実であって何ともいえないのだが)、それにしても桃山流がユニークだったのは、プログラムの主軸に復元曲を並べていることだった。これら復元曲には貞亨二年刊の「大幣」寛文四年刊の「糸竹初心集」宝永の「姫小松」といった古譜をもとに鹿島大治氏が研究を重ねて演奏を試み、桃山流のレパートリーとして不動の位置を占めるようになったものである。当時の桃山流復元曲について「邦楽の友」(1962年7月号)で、この会も見聞しておられる評論家の英十三氏は復元曲に関して以下のように評している。少し長くなるが全文紹介しておこう。
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「桃山流の復元小唄」英十三

 古曲の復元と云うことは独り桃山さんの会ばかりでなく東京でも数年前から試みられて居るが此の運動は戦後著しくなって来たもののように思われる。現に私の手元にあるプログラムを見ても直ぐに解る。私が憶い出すのは三十五年度の文部省芸術祭参加作品として上原真佐喜さんの「隆達くづし」あり、平井澄子さんに糸竹初心集の唄を奈良学芸大学の林謙三さんが復元されたと云う岡崎、近江踊、伊勢踊、吉野の山、菅笠節、小倉踊、小六踊、数え唄、鹿踊、柴垣節、海道下り等を其のリサイタルに演奏されて居ます。
 之等の中私は上原さんの「隆達づくし」を大変面白く伺いましたが、胡津美さんの「長崎」と共にこれは復元というより一つの創作と云うべきでしょう。こうした企ては独り小唄ばかりでなく浄瑠璃にもあります。一中節で一部廃曲になって居たものが初代菅野序遊によって補綴されて一般に綴った語り物少なからずあります。こう考えると復元と称してどの程度に復元されて居るか補綴がどの程度に行われているかが常に問題になってきますがこうしたことは結局明らかになりませんので、要するに其の曲から受くる感じを主として批判するの他はないと思うのです。桃山さんの場合は貞亨二年刊の「大幣」寛文四年刊の「糸竹初心集」宝永の「姫小松」などの楽譜の復元を研究されたものだと云う。
 ところで私は以上掲げたような復元小唄は大抵伺って歩いたのだが、私が今度伺ったのは「大幣」の中の「れんぼながし」と「吉野之山」の二曲で桃山晴慧さんの唄、三絃で梶田昌艶さんの箏の伴奏であった。

桃山晴衣「れんぼながし」(鹿島大示:復元)
 大幣は「ひく手あまた」の意だと高野博士は云う。桃山さんのプログラムの解説には貞亨二年刊と記されて居るが、高野博士の日本歌謡集成(巻六)には元禄十二年の奥書がある。此の間十年程の差があるようだ。昨年五月の桃山流創立記念演奏会の時には同じく大幣の中の林雪(りんぜつ)と獅子踊が復元小唄として掲げられ林雪とは落葉だと註が記してある。三絃は桃山晴慧さんで箏は今年と同じく梶田昌艶さんが伴奏しておられる。私は会の当日以外に、特に晴慧さんに乞うて聞かせて頂いた。糸竹初心集には本文中に「はじめは人さしゆびばかりにて苦しからず」とあるように極く初心者を対称として出されるだけ簡単な弾き方の録譜を載せてあるが、大幣は手引書ではあるが少し程度の高いつまり相当習熟した弾き手でないと弾けないような稍複雑な旋律を録譜してあると、其のプログラムの開設に鹿島大示(大治)さんが書いて居られるが伺って見て成る程と肯かれる。私の伺った此の種の復元の中では正直鹿島大示さんのが一番興味深く思った。何故とならば何と云うか唄一つ一つの時代層がそれぞれ現れて居るように感じたからである。其の中でも前に記した「吉野之山」を特に面白く聞いた。まったく手ほどき風な素朴簡単な曲ではあるが何とも云えぬ雅美がある。後世になる程技巧的に進歩してくるのは独り音曲ばかりではないが、これが一つ誤ると曲の精神から遊離して終う惧れがある。こういう意味で私は今日残って伝唱されて居る上方の「十二ヶ月鞠唄」や「忘れ唱歌」が単に同じ手の繰り返しに過ぎず又一面文句のハヤシの手付けだとは思いながら大変なつかしい曲だと思うのだ。
 文化のない野蛮な人種の芸術にも独特な面白さはある。日本の埴輪も近頃では欧米では高く評価されて居るのと同じだろう。要は其の文句と其の曲が如何にマッチして居るかに帰着するのではあるまいか。曲は単に文句の解説であってはならないのだ。けれどもこれがただ古雅だの面白いと云うだけの単なる趣味に堕すことも亦危険だと思う。
 桃山流が普通に何処でも聞かれる小唄だけを唱うのであったら此の頃のブームに乗じての一家元の増加に過ぎないが、父子御協力でこう云う方面を開拓されて演奏されるのだからこれは誠に珍しい特殊な行き方だと申して良いと思う。
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 さてこうした復元曲を桃山は、上記のような由来も知らなかった中学生の頃から習わされているが、当時彼女は父上から教わっていたどんな曲よりもこれらの復元曲が衝撃だったと語っている。そしてフランス語を教え、三味線と日本のうたを習わせるという、明治人の「和魂洋才」を理想とする父に対し、彼女は中途半端な西洋音楽をとりいれず「日本、足下から始めるんだ」と自らに言い聞かせ、三味線を手にするようになったといっている。これが中学生にすぎなかった桃山晴衣の不動の決意であり、それは生涯揺るぐことがなかった。
 私がパリで初めて彼女のコンサートを目の当たりにしたのは1982年、この時も梁塵秘抄や自作の曲と同時に、これら復元曲のいくつかを演奏し、とりわけ三味線曲の「れんぼながし」が最も古い三味線曲だとは全く想像もつかず、まさに”目からうろこ”状態になった。その後、日本で演奏を共にしていく中で「林雪」や「吉野之山」といった復元曲を聞くにつけ、立光学舎設立とともに創設した立光学舎レーベルでこれらの曲を収めたCDを発表した。
 このCD「林雪」の解説書の中で、桃山は「私にとっての復元曲」と題して、「情感といったものがそのたびに違ってあらわれる『れんぼながし』。演奏ごとに、まるごと見事に異なってしまう「林雪」と「吉野之山」。シンプルでありながら、心と体、技術と曲が一体となった境地までがなかなかの難曲であるこれらの復元曲は、私の音楽にとっての原点ともいえるものです。今までまとめて演奏したことのなかったものを、私のレパートリーを未発表のものまで、よく私より知っている土取が、創設の最初にと強く推し、選曲、構成。本年(1988年)一月、マハーバーラタ世界公演の正月休みに一時帰国した折、レコーディングしました」と記している。この貴重なCDも現在は入手困難な状態にある。なんとかして再リリースをと思っている。