桃山晴衣の音の足跡(3)

先に鹿島大治氏の復元曲について記したが、これら復元曲の中でもずっと手つかずのままにあった古態どどいつといわれる「神戸節」が氏によって復元されたことはあまり知られていない。この「神戸節」について大治氏自身が桃山の機関誌「桃之夭々」に少し説明しているので掲げておこう。

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神戸節(ごうどぶし)  鹿島大治

神戸節は享和二年(1802年)頃、熱田の宮の宿の花街の一つ、神戸(ごうど)で創唱された古態「どどいつ」である。後に「どどいつ又は都々逸」の別名を生じたのは、その囃し言葉”其奴はどいつじゃ”からである。現在のいわゆる「都々逸」は天保九年(1832年)に都々逸扇歌が全国的に流行の神戸節の騒ぎ歌の逆効果をねらって、三絃整調を本調子として改曲したところ、これまた意外の長年月にわたって脚光を浴びることになったのである。「音曲神戸節」の稿本は、大正末に江戸軟文学研究家・郷土史家尾崎久弥氏が入手、次いで昭和十三年に「神戸節付潮来」と云う古譜写本をも入手され、当時の「文化研究」誌に載せて、この古譜の解明研究者を求めたが、応答は得れなかった。尾崎氏から筆者がこの研究の依頼を亨けたのは昭和二十七年の春で、翌二十八年五月に名古屋国風音楽講習所で発表、CBC並にNHKが全国放送した。昭和三十年十一月十日付で名古屋市無形文化財に指定された。なお、尾崎氏自筆の「神戸節歌詞(五百四十五首)は桃山流にその保存を依嘱されている。
 大正時代に詩人大使の愛称で有名なポール・クローデル氏(アカデミー・フランセーズ会員)は、その自著のうち「ドドイツ」の歌詞を多数訳載されているし、「都々逸」の名はヨーロッパにまで知られているわけである。 (桃之夭々第二号1976年刊より)
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尾崎久弥氏(1890~1972)は名古屋に生まれ、「東京の国学院大学高等師範部に学び、近世日本文学・浮世絵等を研究。その後国学院大学名古屋商科大学で教鞭をとる傍ら、大正11年(1922年)より雑誌『江戸軟派研究』を編集・発行し、生涯江戸軟派文学を通して書誌学の研究にも功績を残した。この他にも『名古屋叢書』の編集にも参加した事でも知られるが、彼の最大の業績はその研究の為に多くの研究資料を収集したところであろう。
 彼の死後、約1万点の資料が名古屋市蓬左文庫に寄贈される事となったが、その内の江戸文学関係の1723点(約3,400冊)をマイクロ化したものが本資料である。その内容をみていくと、  仮名・浮世草子 18点   読本 45点    黄表紙 79点 赤本・洒落本 335点 滑稽本 211点
人情本 46点 咄本 96点  合巻 436点 歌謡 224点 歌舞伎 46点  浄瑠璃 103点
諸芸 68点   風俗 16点となっており、特に洒落本は全国一ともいえる稀觀本や浮世絵を含むもので特筆に値する」と、蓬左文庫に経歴説明がある。

1961年「桃山流創立記念邦楽演奏会で挨拶する尾崎久弥氏(左)と桃山晴慧(中央)、鹿島大治氏(右)

また鹿島大治氏と尾崎久弥氏の付き合いは長く、そこから桃山流、そして桃山晴衣の芸名がが誕生したことも意外だった。大治氏は桃山流創立演奏会のパンフレットにこのことを、「(略)或る時、私の邦楽作品にも○○流と云うような名称をつけたらとの話しが友人たちの間から出ましたので、それについて私も考えることに致しました。十年ほど前のことです。その頃すでに尾崎久弥御老台を中心の江戸文学研究”唐桟会”というグループがあって時折は私もその会合に列席していたので、私の邦楽作品も”唐桟流”とでも名付けようかと思ったのですが、唐桟では小唄の場合はよいけれど大唄の場合は少し粋すぎるような気がするので、語呂の同じ”桃山流”これを”ももやまりゅう”と読むことにしました」と書いている。また桃山晴衣は「私の名称でもある桃山はこの唐桟会の唐桟をもじったものです。父は桃の花も実も大好きでした。桃源郷、桃李不言・・・・と桃にまつわるものは何でも好み、『桃李荘』と名付けた画塾展を持ったこともあります。また桃の実は三千年の齢を得る、と食べる方も果物の中で一番喜び、絵にも沢山描いています。私もこの桃山はとても気に入っています」と言っている。そして桃山流創立演奏会で挨拶する尾崎久弥氏の様子を「いつものように無造作に着た着物がゆがんでいて、よれよれの袴をつんつるてんにつけ、何の気取りもなく足を開いて立ち、『ええかね、伝統だ。伝統といってもこの電灯ではなゃァよ』と名古屋弁丸出しのこの一コマは真意のこもった姿でした」と実にユーモラスな描写で書いている。このように十代から父はもとより、明治・大正・昭和を生き抜いて来た芸に携わる人たちの間に立ってきた桃山は、おのずと日本芸能の真髄に触れていくことになっていったのである。