桃山晴衣の音の足跡(20) 英十三(はなぶさ・じゅうざ)氏の手紙

 桃山晴衣が大事に残していた英十三(本名田中治之助)氏の手紙がある。英十三氏については先の小唄の解説のところでも少し紹介したが、自らも吉田草紙庵らと組んでいくつもの小唄の作詞も手掛けている、明治生まれの邦楽評論家、著作家である。手紙の大半は1961年から63年にかけてのもので、桃山が添田知道氏や秋山清らと親交を結びはじめるわずか前の頃である。いわば於晴会以前のご意見番となった人だ。
 『恋ひ恋ひて・うた三絃』で、桃山が人生の師匠と呼んでいるこの人との出会いは、彼女が鹿島大治氏の後見で「桃山流」を設立した前後であろう。創立披露の挨拶をと父娘で邦楽関係の人たちに挨拶まわりをするために上京し、彼女がセッティングした第一ホテルで、邦楽の友社社長や評論家の田中青磁氏らと同席していた英氏に会ったのが最初だったという。この時、接待役をしていた桃山は、「話しの合間に、不器用な手つきで料理をとりかねている英十三にみかねて『お取りしましょうか』と声をかけると、ガン、とはねつけるようなニベもない返事がかえってきて、おもわずお腹の中で『なんたるクソジジイ』と言いかえしてしまったほど」であると、この時の氏の印象を書いている。そして二度目はコンサートホールで偶然出会い、英氏がこの前のおかえしだといって鰻屋に連れていかれ「みるからに頑固で愛敬のないこの老人では気乗りがしない」と思いながら一緒に食事をするうちに、思いがけず意気投合し、その後は桃山が東海号で名古屋から四時間半かけて東京に出かけるときは、駅のホームのベンチで英氏が待ちかまえるようになっていたという。

<英十三氏と桃山晴衣
 この頃、岐阜の鵜沼に住み、東京と名古屋に小唄の稽古場をもっていた桃山は、頻繁に東京に通うようになっていた。桃山流を立ち上げ、家元になってはいたものの、彼女は小唄をはじめ邦楽に関しては多くの疑問をもっていたし、自分の進路についても大いに悩んでいた。もとより明治生まれの父のもとで唄や三味線の技芸を修練してきたこともあり、大治氏より一回り年上のこの江戸っ子の明治人の話しは、興味が尽きることなく、会って聞けなかったことなどを、手紙で一週間に一度の割合できいたりもしている。この時、桃山は22〜24才、英氏は74〜76才であった。
 
 例えば、1962年5月の手紙は、桃山が東京にでたものの過労で寝込んでしまい、英氏が案内してくれる予定だった歌舞伎を見逃してしまったときのもの。

「 晴慧嬢へ。芝居が見られなかったのが実に残念だったが、これはこれからの機会もあることだから今度は前に云って呉れればプレーガイドで買って置いてあげる。但し見られなかった「暫」だの「助六」だの云うものはまったく西洋のドラマとは違ったもので、一度は見て置くも悪くはあるまいが、所謂荒唐無稽、形と衣装だけで物珍しさに終始しているものだ。「暫」とは読んで字の如く「少し待て」と云う意味で主人公の剛勇無双な役者の貫禄を見せるだけのもので別に筋のあるものではないし「助六」も二代目団十郎以来、市川家の伝統の芸として有名だが、今日の助六狂言天保三年江戸市村座の「助六由縁江戸桜」、河東節連中の地で演じた海老蔵の芸が残っているだけのもので、花川戸助六、実は曽我五郎、白酒屋新兵衛、実は曽我十郎といったような根も葉もないものなのだ。元々上方の「助六心中」という和事(わごと)がすっかり形を変えて江戸っ子の代表のように仕組まれていることが面白いと思うが、考えてみれば荒唐無稽劇の代表のようなものがこれだ。晴慧ちゃんなど未だ未だ若いのだから今少し円熟して来た本行の歌舞伎を見る機会はいくらでもあるから、今見れないからといってそう悔やむこともあるまい」と歌舞伎談義に続き、「それよりは邦楽に就いて研究を深めることの方が緊急だと思う。復元曲は確かに桃山流の誇るべき芸域だとは考えるが、同時に小唄の自己解釈、発声や表現方法などに就いても自分としての確固たる信念を持つだけには研究をすること必要だろう。唱い古された小唄でも自分の唄は他人の唄と違った行き方をして然るべきで、それが私のいう無曲音感で要は音曲の総てが或自分の中に醸された感情が人の心の中に浸み透ることが音曲の核心だと思って良いと思う。これが序破急、宜しきを得てこそ立派な唄だと云うべきだろう。これを度外視したら音曲の意味をなさない。間や言葉の續け方、ウミ字の引っ張り、総てがこれを基本として自分が創作すべきだ。それでこそ晴慧ちゃんの唄は晴慧ちゃんが出来ていなくてはならないことになり、それが所謂芸は人なりという結論になるのだが、あまり高踏的になると一般の人から離れることになるし、あまり安易化すると下品になる憂いがある。そこが難しいところだ」と芸論に続いていく。そして最後に「今度晴慧ちゃんが来たら鯉こくに鯰のスッポン煮でも喰いにいきましょうよ」とむすんでいる。
 東京は向島の百花園、隅田川の土手、浅草の観音、駒込六義園等々、江戸の風情を残すこれらの景色に触れながら、明治時代の小唄や歌舞伎談義を聞きながら胸をはずませ、「おまいさんはウルサイ女だからね」と駒形のどじょう、森下のけとばし、本郷のけとばし、ももんじゃと名高い江戸の味、横町の鮨屋鰻屋、おでん屋、天ぷら屋と、そのときにふさわしい店に連れて行ってもらっては江戸の味覚の全容も知ったとも桃山は書いている。
 また「中村」という料理屋か待合のような場所では、宮薗も習っていたという芸界にしられたおかみさんを紹介され、十三氏が草紙庵とここで遊び、詞を作り、新しい草紙庵小唄というジャンルを築いたことなどを聞き、「私はなにげなく接していた小唄の中に、そこに生きた人の美意識と、時代をかけた取り組みを見るようになりました」と桃山は回想している。またこの「中村」へは宮薗節に入門してからも千寿師匠と訪れる機会があり、この時は師匠が桃山の演奏する復元曲を当時の財界の上位にランクされていた某会社の社長に聴かせる為にこの場をもったという。そしてなんでも千寿師匠が芸者時代に英十三氏がお客でやってきて、宮薗を弾くと、「小唄は、荻江は、東明は」と偉そうにいうから「なんでもできます」とみんな弾いたそうで、その師匠の英氏に対しての言い草は「なんだい草鞋の裏みたいな面しゃあがって。あたしゃだいっきらい!」ということだったそうだ。以来、千寿師匠はお座敷をかけてもらっても金輪際でなかったという。

<1961年桃山流創立記念コンサート>
まだ会って間もない頃の 1961年7月29日の手紙では、おそらく桃山が小唄を教えることについて質問したのかもしれない。次のような返事がきている。

 「私などは二十がらみから先代寅右エ門に哥沢を習いだしたのが手初めでいつか八、九年経ってしまい、それから一中節の菅野派に入門、つづいて河東、宮薗と随分好きな稽古をしたものですが、一中節だけは止められず此年迄続けています。小唄は故人の上手な人を皆聞いて居るので稽古をしないで百くらい覚えて終わった訳ですが、今では小唄の英みたいに思われて居ます。けれども好むままに自分で楽しんでやって居るのですから好きな曲を稽古するだけで嫌いとなると何流でも一向覚える気がしません。これを思うと好き嫌いにかかわらず、人に教える為に芸を勉強する師匠となり、これを職業とするとしたら到底私など勤まる筈もありません。従ってお宅様の御心境を重々お察し致します。けれども一度やると決心したら芸の道は飽くまで精進するの他ありません。天分や素質に頼って居ないで少なくとも自分に納得ゆくだけにやって見たいものですが、それには矢張自分の官能、否それ以上、人間としての完成を志すことが大事だと思います。芸は人なりと云うのも此辺の消息を云ったものだと考えて居ます」

 「恋ひ恋ひて・うた三絃」によれば、英十三氏は銀行・田中財閥の息子(鹿島大治氏の推測による)で、夫人の父も地下鉄王、早川厳鉄とよばれた財界人。当時、二人の結婚は雑誌のグラビアになったそうである。結婚後、戦前までは製紙業にかかわっていたが、戦後の混乱で身を引き、そのときずっと面倒をみてこられた京都祇園の名妓・豆力さんと縁をきらなければならなかのが心の痛みとなったそうだ。この豆力さん、十三氏いわく、「利巧で芸が良く、同じ空の下に生きているとおもうだけでも幸せに感じさせる女」だということであった。この豆力さん、桃山が宮薗に入門してしばらくすると千寿師匠と親しい新派の英太郎の妹であることを知り、師匠のはからいで英太郎先生から十三氏の想い心を祇園に伝えると、豆力さんはとても喜んでいたとの伝言があり、それを桃山が十三氏に伝えたこともあったという。

 1962年6月28日に書かれた手紙には、明治から幾度も人生の苦境に立たされて来た氏のことばが桃山に説くように語られている。

 「夜になるとホットする君の心境は能く解る。まったく生活の外に一人居るような心持ちは、夜でなくては君には有るまいと思う。
『まつごとのまだつきなくに明けにけり いづこや秋の長してう夜は』という古歌がある。この歌に取材して色っぽくしたのが哥沢の『秋の夜』なのだが、生活に巻き込まれて居る神経の細かい人間には夜中の寝静まった頃が本当に砂漠のオアシスだと思うよ。生活圏外に自分を置くことの出来る時間だものね。けれどもそこが矢張修養で人間が出来ると忙しい中でも自分を圏外に置くようになれるものらしいね。禅者の修業も同じことなのだろう。生活と芸との調和と君は云うが元々物心の調和は何としても計っていかなければならないように、重荷を負わされて居るのが人間なのだから仕方ないよ。偶々呼名を異にして自分が直面すると事新しく感じるまでだ。芸でもやる人間なら矢張神経は細かいにきまって居るからね。そんなことで閉口たれてはいけません。私だって口には出さないが長い間には死ぬより苦しい思いをしたことは何度もあった。今日でこそ世捨人同様、世間からは先生は好きなことばかりなすってと羨ましいとよく云われるのだが、これも晴慧ちゃんの立場とよく似て居る。要するにこれは世の中の見方・・・と云うより、観じ方の相違から出て来るのだろう。観じると云うのは、実際でないものを実際と心の内で考えることで東洋の哲学では仲々大きな物の見方となって居る。物心一如とすればこうした見方になるのは当然だ。
 読書欲が盛んなことは結構なことだ。私に云わせれば現代のことは週刊雑誌や新聞で充分だから順序としては古典ものを味読することが肝要だと思う。何でも良いが私は随筆物をすすめたい。今日では最早随筆の書ける人は居ないし、読みたがる人も居ないだろうが、随筆は実に面白いし自分の養いになるものだ。何故かと云うと人間多少時代の差はあっても人情に変わりもないし第一随筆は人に読んで貰うために書いたものでなく、其筆者が偽らざる市井の人情風俗を書いたものだからだ。随筆を集めたものの中で有名なのを「燕石十種」と云うのがある。国書刊行会で六冊出して居るが、何□の古本屋でもある。江戸時代の近世俚俗の随筆を達磨屋活東子、通称岩本左七が編輯したものだが、主な随筆は殆ど集まって居る。私は帝大在学の頃江戸文学の研究に第一大に助かったのが此本で其以来私は私なりの江戸文学愛好者となって終わったのだ。是非おすすめしたい。まだ此他に随筆を集めたものは沢山あるが、順序があるし、そう沢山一度に読める筈もないから追々話す」

<桃山晴衣、英十三、鹿島大治
 英十三氏からの手紙は桃山が残しているものだけでも三十通ほどある。一つ一つ原稿を書くように丁寧に、書き記されている。桃山の手紙が残っていないので何とも云えないが、彼女は明治から邦楽界を観て来たこの先人に尊敬と親しみを込めて多くを書き記していたはずだ。
 また桃山は夫人のおきよさんにも気に入られ、お宅へ伺うことも多くなり、彼女から夫の数ある女関係の最後がみんなきれいじゃないとの嘆きを、生々しい具体例とともに聞かされるようになった。夫人は「毒の無いカラッとした人柄」で娘時代から遠慮っぽく我慢強い苦労性だと自ら評し、最後は乳癌が再発し体中に転移してまでも、氏の面倒を見る側にまわっていた。さすがに桃山は見ていられず「奥様がなくなったらどうするの」といっても「てんや物でもとって暮らすさ」との返事で、わかっていない氏を嘆く。夫人は十三氏に食事をとらせ、後片付けをし、床をとって寝込んだ翌朝、いつもの時間に起きて来ないので、十三氏がしばらく待って起しにいくと死んでいたという。
 「私はオレンジジュースの粒も喉を通らなくなって骨と皮だけになり、涙を流しながら薬を燕み下していた姿が忘れられません。電車が動き出すと、先生と二人、縁から身を乗り出していつまでも手を振って下さった姿も忘れられません」
 桃山は「病院にも一人で通い、最後の日まで寝込むこともしなかったこの女性の終わり方は壮絶でした」と印象深く記している。
 英十三氏は夫人をなくして二年足らずで自らも昇天してしまった。桃山はその最後に立ち会っている。
脳出血で半身不随になり、大部屋に入院している先生をたずねて、他の患者さんに気がねしながら三味線を弾くと、もつれる舌でうれしそうに“黙阿弥ィさんの名ゼリフ、チンチン、いなごやばったとオ、割り床のオ”と十八番をうたう。
 後に『どこかの女の子が三味線を弾いてくれたのだよ』と、娘さんにはなしたそうです」と「恋ひ恋ひて・うた三絃」では結んでいる。
  桃山流創立が1961年で英十三氏が逝去されるのが1966年であるから、彼女が英氏とお付き合いできたのは氏の最晩年の五年ほどになろう。この時代、先に書いた高度成長時代に突入し、若者はビートルズ来日に奔走していた。桃山晴衣はこうした同時代の若者を他所に、遠くなりつつある明治人の声を聞き続けていたのである。