郡上八幡音楽祭2016/トルコ・スーフィー音楽の祭典

郡上八幡音楽祭2016/トルコ・スーフィー音楽の祭典

 今年で三回目を迎える郡上八幡音楽祭。2014年に開始した音楽祭のプログラムは韓国のキム・ジュホン率いるサムルノリのグループ「ノルムマチ」と土取利行の打楽器アンサンブル。そして昨2015年は「超フリージャズ」、イギリスよりサックスのエヴァン・パーカーアメリカよりベースのウィリアム・パーカーを招聘し、土取利行のドラムとのトリオで即興演奏の醍醐味を、郡上のみならず東京、京都でも体感していただいた。そして今年のテーマは「トルコ・スーフィー音楽の祭典」。現在、トルコ古典音楽のネイ奏者として最高峰のクツィ・エルグネルと彼のアンサンブルが初来日、しかも郡上独占公演の運びとなった。
 クツィのアンサンブルで同行してくるのは二人の音楽家で、一人はヴォーカルのベキル・ビュユックバッシ、そしてもう一人はトルコの古典楽器タンブール奏者のムラット・アイデミル。ネイ、タンブール、ヴォーカルの三人に私がベンディル(枠太鼓)やその他のパーカッションで彼らと合奏することになる。彼らの演目はトルコのオスマン帝国時代(1299~1922)に発展した古典音楽、とりわけその根幹を築いたスーフィー音楽が主軸となる。
 ここではその音楽を紹介する前に個々の音楽家のプロフィールを以下に紹介しておこう。


 クツィ・エルグネル(ネイ奏者)

1952年生まれ。祖父はトルコの高名なネイ奏者スレイマン・エルグネル・デデ、父ウルヴィ・エルグネル。幼少より彼らから直伝でネイを習い、三代にわたってスーフィー伝統音楽を受け継いできた。青年時代にイスタンブール・ラジオ局のネイ奏者となり、そこで多くの卓越した演奏家と共演する。1973年から建築と音楽学を学ぶ為にパリに留学。以来、ヨーロッパやアメリカでトルコのスーフィー音楽を紹介し、多くのコンサートやレコーディングを行う。またパリではスーフィーの音楽や思想を教える教室を開設。ネイ奏者としてトルコ古典音楽の紹介だけに留まらず、世界各地でピーター・ブルックモーリス・ベジャールなど他のジャンルのアーティストともコラボし、ブルックの『マハーバーラタ』では土取利行と共演した。

*ネイ/葦製の縦笛。普通八つの節のついた葦を用い、前に六つ、後に一つの指孔を持つ。象牙や硬質の木で円錐形作られた歌口が最上部に付けられる。長さの異なるものが数種あり、メヴレヴィー教団の合奏団では、ネイ奏者が指揮者の役割も果たす。

ムラット・アイデミル(タンブール奏者)

1971年ドイツ、ハノヴァー生まれ。1982年、イスタンブール工科大学のトルコ国立音楽院で音楽を習い始める。10年間にわたる音楽学校の学習期間に、タンブールをネシップ・ギュルセスに学び、1992年に器楽教育部を卒業。1989年には文化省のイスタンブール政府トルコ古典音楽合奏団の一員として活躍。1997年ケマンチェ奏者のデリャ・トゥルカンと一緒に演奏した作曲ならび即興曲のCD「トルコ古典音楽Ahenk」第一集を発表。2008年、CD「Ahenk」第二発表。現在、クツィ・エルグネルをはじめ、多くの古典奏者と演奏を続ける一方、タンブール音楽の可能性を開くために、新たな音楽活動も展開。トルコ古典音楽の次代を担う期待の演奏家である。

*タンブール/24のフレットを持つ細長いネックのリュート。半球形の共鳴体はすべて薄い板で造られ、八本のダブル弦が張られている


ベキル・ビュユックバッシ(歌手)

1956年コニアで生まれる。イマム・ハティップ高校卒業後、宗教事業部でムエッジン(詠唱者)として努めだす。最初の音楽の手ほどきをネイゼン・サドレッティン・オズチェイミとハーフィーズ・フェヴジ・オズチェイミから受ける。1984年、イスタンブールのラレリモスクのムエッジンとして三年間努め、1987年にファティーフモスクからの任命で23年間にわたってムエッジンを努める。彼はかつてのカニ・カラカ、ケマル・テゼルギル、ベキール・シトゥキ・セズギンのような大家から賞賛を得ている。トルコや各国のフェスティヴァルやコンサートに、コーラン詠唱者とし参加。2010年、ファティーフモスクの努めから引退。トルコのアラトュルカ・レコードによるコンサートを開催し、数々のレコードを発表。現在は音楽家として幅広い活動を続けている。
  

 真正トルコ古典音楽の伝統を受け継ぐ、ネイ奏者クツィ・エルグネルと私の出会いは1970年代中頃に遡る。私が海外に出て翌年の1976年にパリで国際劇団を作り活動を始めていたピーター・ブルックから劇団での演奏を依頼され、演劇の仕事に着手して間もない頃だった。ブルックはその頃、演劇と同時に神秘思想家グルジェフの映画「注目すべき人々との出会い」を製作中で、その映画にはクツィも出演していた。ある時、劇団の役者の結婚式があり、その家に私も招待され、式場で演奏していたのがクツィとネズィ・ウゼルというベンディル(枠太鼓)奏者だった。この時、初めて聴いたネイの響きとベンディルのリズムがとても印象的で、トルコ音楽への関心が一気に高まった。以来、ブルック劇団の仕事でパリに居るときは、当時留学でパリに住んでいたクツィのアパートを訪ねてはトルコ音楽、とりわけスーフィー音楽について教えてもらっていた。
 ピーター・ブルック劇団で本格的な劇場音楽を担当する様になったのは、77年に創作したアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』からで、おそらくこの頃すでにブルックは超大作となったインド叙事詩マハーバーラタ」の劇化構想を始めていたと思う。80年のアヴィニオン演劇祭でこの『マハーバーラタ』上演を予定していたものの、世界最大の叙事詩を学ぶにつれ、ブルックは当初予定していた断片の劇化を止め、全物語の演劇化という途方もない方向にスイッチを切り替えた。これによって予定していたアヴィニオンでの『マハーバーラタ』公演は延期となり、代わりに演出したのがイランの詩人アッタールの作品『鳥の言葉』だった。『マハーバーラタ』に『鳥の言葉』、ヒンドゥー教の教えとイスラームスーフィズムの教えが、一気に私の中で交差しだした。そして、スーフィズム、とりわけジャラールディーン・ルーミーが開祖となるメヴラーナー教団とその教えに強い関心を持つ様になった。

 メヴラーナー・ジャラールッディーン・ルーミーは13世紀のイスラーム最大のスーフィー詩人かつ神秘思想家で、ペルシャ語コーランといわれる詩集『マスナヴィー』や『ル−ミー語録』は時を越えて世界中で今も広く読み継がれている。また彼は旋回舞踊教団として知られるメウレヴィー教団の祖だが、イスラーム教では本来典礼の音楽や舞踊は用いず、イスラーム法学者によってこれらは一切禁止されていた。しかし、ルーミーが活躍した中世、オスマン・トルコの時代には貴族階級は娯楽として古典音楽を享受し、一般民衆は民俗音楽に親しんでいた。こうした状況下で、イスラームの宗教生活に音楽を取り入れたのが、スーフィー達(イスラーム神秘主義者)だった。彼らは律法中心主義の法学、神学者に対し、音楽や舞踊は自我の消滅を導き、陶酔的境地に入って神の直接的体験を得る手段となりうるとし、これらをサマー(集会で特定の章句や詩を唱え忘我の境地へと入る勤行)の形で発展させ、その最たるものがルーミーを祖とするメヴレヴィー教団の典礼となった。
 ある昼下がり、最愛の精神的、宗教的同朋シャムスを亡くしたルーミーは放心状態でコニアの市場街を彷徨っていた。何も目に入らないまま歩いているうちに、宝石商の前に立ち止まり、カーンカーンと打ち付ける金細工師の鎚音がに耳に入り、その音をじっと聴き続けているうちに、やがて身体が不思議な衝動を感じ始めた。右手があがり、目がふさがり、頭が右肩に垂れる。右足が上がったかと思うと、おもむろに旋回を始めだした。ルーミーの恍惚となった踊りを見んと街の者が集まってくる。宝石商は金細工師に打ち続けろと命じ、自らもいたたまれなくなりルーミーと共に旋回をはじめる。宝石商セラ八ッディンは、その後ルーミーに帰依し、彼の最愛の友となる。

 こうしてルーミーはこの舞踊を典礼に取り入れはじめた。音楽は当初自由だったようだが、どんな楽器が用いられていたかは分からない。その後、ルーミーの息子でメヴレヴィー教団の後継者となったスルタン・ヴェレッドがルバーヴという擦弦楽器を演奏していたことから、この楽器が最初に典礼で使われたのではないかともいわれている。またルーミー自身は『精神的マスナヴィー』の冒頭で葦笛(ネイ)を象徴的に用いた<葦笛の望郷のうた>という詩を記しているように、この楽器の愛好者であったことが伺える。

葦笛を聴け、それが奏でる物語を、 別離を悲しむその音色を。
葦笛は語る、慣れ親しんだ葦の茂みより刈り取られてのち。
私の悲嘆の調べには 男も女も涙する。               
別離の悲しみに私の胸は引き裂かれ。                
愛を求めて痛みは隠しようもなくこぼれ落ちる。            
誰であれ遠く切り離された者は乞い願う。                
かつてひとつであった頃に戻りたいと。

上の詩はWeb に紹介された『精神的マスナヴィー』より引用。
詳しくはこちらのページから→http://levha.net/mathnawi/

 スルタン・ヴィレッドによってコニアに教団としての基礎固めが行われたメヴレヴィー教団は、この得意な旋回舞踊と音楽によってイスラーム教徒の耳目を集め、歴代のスルタンの寄進による数々の施設を各地に誕生させていったが、オスマン帝国の衰退、崩壊と運命を共にし、1925年にトルコ共和国の近代国家への改革過程の中で、組織は解体され、教団の典礼も禁止された。
 しかし、ルーミーの追悼集会がもたれた1942年を機にメヴラーナーの信奉者達がひそかに典礼の再興に努め、50年から60年にかけて音楽家舞踊家全員が集まってその復興に拍車がかかった。現在はルーミーの命日、12月17日に追悼記念会としてコニアに世界各地から人々が参加しての典礼が開催されている。この宗教弾圧にも等しい、近代化への転換期に苦境を乗り越えて音楽を続けてきたのが、クツィ・エルグネルの祖父スレイマン・エルグネル・デデや 父のウルヴィ・エルグネルなど、ルーミーの信奉者たちである。

<1960年代、復活したメヴレーヴィ教団の典礼でネイの演奏をするクツィ・エルグネルの父、ウルヴィ・エルグネル(左より三人目、四人目がマスター、アカ>

 クツィ・エルグネルが生まれたのは、再びメヴラーナーの典礼が再考され音楽家舞踊家が活動を始めた素晴らしい時代で、彼は父からネイを伝授されるだけではなく、復活したメヴラーナー楽士の長老達の演奏を聴き、共に演奏してこれら巨匠の技を学んでいったのである。彼はもちろんコニアやイスタンブールのメヴレヴィー教団の典礼で演奏もしているが、それだけに留まらず、メヴラーナーの時代に始まり、やはり禁止されてきたベクタッシュ教団やハルヴァーティー教団の典礼にも楽士として参加し、スーフィー楽家として活躍する一方、これらスーフィーの思想や哲学研究にも力を注ぎ、パリでは自らの教室を持ち、ルーミーやベクタッシュの音楽や思想を教えてもいた。
 ブルックの『鳥の言葉』を演劇化するにあたって、増々スーフィーの音楽に興味をもった私は、ちょうどクツィがトルコに帰国する日に合わせて、メヴラーナーの拠点コニアやイスタンブールなどを訪ね、スーフィー教団の重要な人物と会い、話しを聴き音楽を聴き、さらにハルヴァーティー教団を訪ねた際にはテッケ(寺院)でズィクル(行)にも参加させていただく幸運も得た。これらの旅は自著『螺旋の腕』に記したので省略するが、この旅は『マハーバーラタ』の音楽製作に携わりインド音楽に没頭する前でもあり、トルコスーフィー音楽の深さを実感した貴重な旅であった。
 さて今回、郡上八幡音楽祭にクツィ・エルグネルが二人のトルコ古典音楽の精鋭を率いて来てくれる。彼は88年の『マハーバーラタ』で日本に来たが、本格的スーフィー音楽の公演はこれが初めてで、他の二人は初来日となる。今回は一日目がスーフィー、メヴラーナーの典礼音楽、二日目がスーフィー達がその発展に寄与したオスマン・トルコの古典音楽が演奏され、私も打楽器で参加する。二日間のコンサートは、いずれもクツィ・エルグネルの体験と博識ゆえに実現するコンサートであり、是非ともこのまたとない機会をお見逃しなく。
 来たれ、来たれ 汝いかなる者であろうと 異教徒であれ、偶像崇拝者であれ 来たれ、われらが宿は 望みなきところにあらず たとえ汝、誓に背こうとも 来たれ、幾たびとなく。<ルーミー>
 
郡上八幡音楽祭2016『トルコ・スーフィー音楽の祭典』
■『スーフィー・メヴラナの伝統音楽/神秘の楽奏』
7月17日(日)17時開館 18時開演
郡上市総合文化センター2F 文化ホール
前売:4000円 当日:4500円
■『オスマン・トルコ古典音楽/珠玉の楽奏』
7月18日(月祝)18時開館 19時開演
安養寺
前売:5000円 当日:5500円

詳細:http://gmf2016.wix.com/sufi

馬喰町ART+EAT 桃山晴衣『人間いっぱい うたいっぱい』出版記念特別展示会&イヴェント

桃山晴衣遺稿集『にんげんいっぱい・うたいっぱい』
出版記念展/開催期間:4月19日(火)〜30日(土)

会場/馬喰町ART&EAT
https://www.art-eat.com/
〒101-0031 東京都千代田区東神田1-2-11 アガタ竹澤ビル202. TEL:03-6413-8049

■ 出版記念特別展示会では、著作タイトル『にんげんいっぱい うたいっぱい』が示すように、桃山晴衣の多彩な人々との交流と、三味線による、うた・語りの飽くなき探求の軌跡が、写真パネル、遺品、映像、音源等で紹介される他、特別イヴェントとして、彼女と関わりのあった人たちの貴重なトークやパーフォーマンスが開催されます。

東京大空襲を子供のときに体験し、敗戦後の日本社会の急激な様変わりを目の当たりにしてきた桃山晴衣は、とりわけ六十年代からの高度経済成長に伴い、自然から乖離してゆく近代生活によって感性の所在をなくしていく日本人に向けて伝統文化の大切さを、絶えず自問自答しながら、音楽活動を通して訴えてきた。その彼女の理想とした日本の伝統文化が因習的で創造性のないものではないことは、本書の遺稿『にんげんいっぱい うたいっぱい』が物語っている。
 <個の充足と隣人を受け入れるやわらかさ>。
 彼女は古曲長唄、端唄、小唄、復元曲、明治大正演歌、梁塵秘抄、今様浄瑠璃と、縦割りの邦楽界を飛び出し、多岐にわたる日本音楽を身につけ、その独創的な実践を通して、日本人の豊かな感性を伝えてゆくと同時に、ピーター・ブルックデレク・ベイリーピナ・バウシュなど世界のアーティストとも創造的な交流をはたしてきた。
桃山晴衣『にんげんいっぱい うたいっぱい』の土取利行あとがきより)
 

スペシャル・ライヴ・イヴェント】
◉4月22日(金)開場18:00 start 19:00(終演予定21:30)
スペシャルライヴ参加費 予約:3500円(1drink ) 当日:4000円

【一部】トーク桃山晴衣と於晴会」
遠藤利男(日本エッセイストクラブ理事長)× 木村聖哉(作家)
【二部】パーフォーマンス『梁塵秘抄建礼門院(大原御幸)』
出演:安田登(謡)&土取利行(三味線、ウード、エスラジ・歌)


   
◉4月23日(土)開場16:00 start 17:00(終演予定20時頃)
スペシャルライヴ参加費 予約:3500円(1drink ) 当日:4000円

【一部】トーク添田唖蝉坊・知道の演歌と桃山晴衣
中村敦(神奈川近代文学館)×土取利行(音楽家
【二部】コンサート『添田唖蝉坊・知道を演歌する』土取利行(歌・三味線)+岡大介(カンカラ三線・歌)


パリでの出会い。クーリヤッタム舞踊家、カピラ・ヴェヌーの成長

久しぶりのブログです。
2015年10月11日、昨夜、公演休みで南インドの古典舞踊「クーリヤッタム」をモンパルナス近くの世界文化館で観た。『Battlefield』観劇にきた客からの情報で旧知の女性舞踊家カピラ・ヴェヌーの独舞だと聴いたので馳せ参じた。30年ほど前、ブルック『マハーバーラタ』公演がセゾン劇場で開催された。この時、世界各地で行われてきた「インド祭」が日本でもあり、セゾンからこれまでにない企画をと、頼まれ土取利行・桃山晴衣監修の下、『タゴール』をテーマにした絵画展、映画祭、コンサート、舞踊、シンポジウムを企画。同時に国際交流基金が『クーリヤッタム』を始めて招聘した。クーリヤッタムは12世紀頃に起源を辿る南インドサンスクリット伝統舞踊で特別な家系の人たちによって伝えられて来たが、近年その継続があやぶまれ、カターカリ舞踊家でクーリヤッタム舞踊家のG・Nヴェヌーが実践家、研究家として精力的にその後継者育成等にも力を注いできた。カピラは南インドの古典女性舞踊家でクーリヤッタム舞踊家でもある母のニルマラ・パニカルと父G・Nヴェヌーの間に生まれた女性で、30年前のインド祭の「クーリヤッタム」公演の際は父母に手を引かれた子供だった。その後、青人になってからは古典舞踊だけでなく現代舞踊や演劇にも興味を持ち、白州でのワークショップに何度か顔をみせたり、日本公演も度々行って来た。もう十年以上も会っていなかったが今回はクーリヤッタムの女性独舞ナンギャル・クトゥーの上演で来仏。ミザーブ(壷太鼓)とウデッキの細やかなリズムとは対照的な静的な動きと顔の仕草だけで物語を伝える技は、30歳を越えた彼女にしての熟成がみられた。公演後カピラに会った。生まれて一年という子供を手に大きな目を輝かせ、パリで会ったのが信じられないと喜んでくれた。父のヴェヌー氏は今回見えなくて残念だったが、彼女の成長した姿をみてうれしかった。私がヴェヌー氏と始めて会ったのは彼がアマヌール・チャキール師と同行してマンダパという小さな劇場でワークショップを持ち、「マハーバーラタ」の準備を進めていた私たちにデモンストレーションをしてくれた30数年前。それ以後もケーララを訪れ親交をもっていた。カピラ一行は翌々日すぐにインドに戻るというハードスケジュールで私たちの『Battlefield』を観てもらえないのが残念だったが、南インドの爽やかな風が吹き抜けたパーフォーマンスの一時だった。なお、先述のマンダパ劇場と今回の世界文化館は共に桃山晴衣がパリでコンサートを開き、私が彼女と始めて出あった場所であり、時でもあった。

■カピラ・ヴェヌーのクーリヤッタム

■公演終了後、子供を抱えてのカピラと再会。

ピーター・ブルック『驚愕の谷』への旅(二)


<驚愕の谷@ブッフ・ドュ・ノール劇場>
 『驚愕の谷』の初演はパリのブッフ・ドュ・ノール劇場。いうまでもなくブルック演劇を語るに欠かせない、彼が40年近くにわたって活動の拠点とし、演劇史に残る多くの作品を創作し上演してきた場所だ。この劇場の歴史は古く、創設は1876年(明治9年)にまで溯る。劇場は開設以来、何度も経営者やディレクターの変遷を繰り返し、1904年〜1914年にはモリエール劇場として多くの作品を上演。その中にシャンソン・リアリテの改革者アリスティード・ブリュアンが自ら「舗装の花」という作品を上演して話題になったとの記録もみえる。当時この界隈で人気を博していた彼だからありえることだが、まさかこの劇場に彼の声が響き渡っていたとは感動的である。

<アリスティード・ブリュアン>
その後もブッフ・ドュ・ノール劇場は演劇や音楽の劇場として様々な変遷を繰り返し1952年に国から建築物老朽化の警告を受け閉館となってしまう。そして22年の風雪に晒されて朽ち果てようとしていたこの劇場は、ロイヤルシェイクスピア劇団を離れ演劇の再考を試みてアフリカに旅立ち帰還して来たピーター・ブルックと以後彼の創造を可能にさせた豪腕プロデューサー、ミシュリン・ロザーヌ女史によって1974年に再開され、最も前衛的かつ新たな実験の場として光り輝くことになっていく。ブルックとミシュリンがこの劇場を訪れた時、中は廃墟同然で雨や風で壁は至る所に穴があき、崩壊した瓦礫が山と化していたが、100年経ても建物の骨格は崩れておらず、むしろ威風をはなったこの劇場を、ブルックはこのまますぐにでも使用したかった。彼らは政府の援助と許可を申請するも、許可と費用の審査には二年を要するとの返事。ミシュリンはこの返事を認めることが出来ず、当時のフェスティバル・ド・トーヌのリーダー格だったミッシェル・ギーの助力も借り、その年にこの劇場でフェスティバル参加作品としてブルックの『アテネのタイモン』を上演して再開を可能にした。

アテネのタイモン@ブッフ・ドュ・ノール劇場1974年>
 私がこの劇場を訪れたのは、この翌年の1975年。チベット死者の書を基にしたヨシ笈田演出の実験劇『般若心経』の公演会場がブッフ・ドュ・ノール劇場だったからだ。笈田氏はこの時すでにブルックがアフリカ縦断の旅に出たときのメンバーでもあり、75年のフェスティバル・ド・トーヌに日本で製作した自らの作品を持って参加した。そして、私はその音楽を担当したことから、ブッフ・ドュ・ノール劇場で、ピーター・ブルックとも初めて出会うことになったのであるが、この時の私の動向については他の場所でも記しているので省略する。こうした縁があって私はさらに翌年からブルック劇団と即興劇の旅へ、そしてその翌年の77年にはブッフ・ドュ・ノール劇場でのブルック演出『ユビュ王』の音楽を担当することになり、以後劇団の音楽家として『鳥たちの会議』『マハーバーラタ』『テンペスト』『ハムレットの悲劇』『ティエルノ・ボカール』『11&12』などをこの劇場で上演してき、振り返ってみれば今回の『驚愕の谷』で40年近くこの劇場と付合うことになっていたというわけである。

<「テンペスト@ブッフ・ドュ・ノール劇場>
 数多くのピーター・ブルックの伝説的作品を生み出して来たブッフ・ドュ・ノール劇場であるが、現在この劇場は実質的にブルック、ミシュリンの手から離れ彼らの下で働いてきたオリビエ・マンテイと現代音楽畑で働いて来たオリビエ・プーベルの二人をディレクターとして継続されている。このバトンタッチが行われたのは2010年私が音楽を担当したブルック作品『ティエルノ・ボカール』上演期間だったと思う。ミシュリンの体調がすぐれず、これ以上プロデューサーとしての仕事ができなくなったというのが大きな理由だろう。この時点でブルックは前述の二人にプロデュースをまかせ、ブッフ・ドュ・ノール劇場の今後が問われることになった。「ブルック引退」の記事が新聞でも取り上げられたので、演出活動もやめてしまうのかと思っていたら、その後も『11&12』『ベケットのフラッグメント』オペラ『魔笛』再編版『スーツ』を立て続けに演出し、今度の『驚愕の谷』が89歳の新作となったのである。

<赤の森、ブッフ・ドュ・ノール劇場での「ティエルノ・ボカール舞台>
 ブルックが劇場のディレクターとして君臨していた2010年まではほとんど他の公演にこの劇場を貸すこともなく、彼の理想を実現するためにこの劇場がリハーサルから公演まで一貫して用いられて来たが、今は劇場経営もあり、音楽と演劇を主にした他のプログラム公演が組まれていて、以前のようにブルック自身が自由に使えることが難しくなってきた。そのため、『驚愕の谷』のリハーサルは半期間を他の小劇場のスペースを借りて行い、残りの期間をブッフ・ドュ・ノール劇場で行うことになった。本作品は「赤い森」と形容もされたブッフ・ドュ・ノール劇場が初演となったが、壁の多くが赤く塗られたのは『ハムレットの悲劇』あたりからであろう。この劇場の装飾や塗装の一つ一つにはブルックが演出してきた作品の痕跡が残されており、久々に舞台に立った今、これらの跡に数々の出演作品の思い出を重ね合わせて見ている自分がいた。

<「驚愕の谷」舞台に置かれた土取利行の楽器>

ピーター・ブルック『驚愕の谷』への旅(一)

「演劇は私たちを驚かせる為にあり、また二つの相反する要素<一般的なものと驚異的なもの>を配合しなければならない。最初の探求であった『マン・フー』において私たちは、しばし狂人の位置に追いやられてきた神経障害患者の脳、自身の病気に起因したり、予測できない習慣を持った人間に直面した。それはしばし悲しく、時に愉快でもあり、いつも揺れ動いた。彼らは我らであり、我らは彼らでもある。ここで私たちは再び脳への探求をしようと思うが、今回、観衆は、音楽、色彩、味覚、イメージ、記憶において ある瞬間からもう一つの天国、地獄へと彼らを動かす強度な経験を持つ個々と、直面するだろう。
偉大なペルシャ詩人アッタールの「鳥の言葉」には、30羽の鳥が、一つ一つ段々と厳しくなっていく七つの谷を越えて彼らの探求の旅を完成させなければならないという話しが記されている。今回は人間の脳の山や谷へと入ってゆき、私たちは六番目の谷である、驚愕の谷へとわけいる。私たちの足はずっと地についているが、一歩ごとに未知へと進む。」   ピーター・ブルック
 

<ピーター・ブルック『驚愕の谷』パリ、ブッフ・ドュ・ノール劇場>
  郡上の立光学舎の山々に薄く根雪が残る2014年2月26日、名古屋国際空港からパリに飛んだ。2012年5月にピーターの長男サイモン・ブルックが監督を務めるブルックのドキュメント映画『タイトロープ』の撮影で渡仏して二年近くが経っていた。この間にピーターは日本公演のあったオペラ『魔笛』と前作をミュージカル仕立てにした『スーツ』を製作し、後者上演の際に来日した共同演出のマリー=エレーヌ・エティエンヌと東京で食事をしている時に、『驚愕の谷』についての話しがあり、同時にパリのピーターから音楽の依頼電話があった。
 ここ数年、私は桃山晴衣が亡くなってから、彼女が二十数年にわたってご意見番をしてもらっていた添田唖蝉坊の長男で演歌師でもあった添田知道師から直接習っていた唖蝉坊・知道演歌を残された三味線で歌い継ぐ活動を続けていた最中で、これを中断するのも少々迷ったが、とにかく40年近く一緒に仕事をさせていただいたブルックの仕事、しかも今年89歳という高齢での創作ともあってこちらを優先せざるをえなかった。
 『驚愕の谷』とはペルシャ神秘主義詩人アッタールの『鳥の言葉』に記された7つの谷の一つの名称で、ブルックはこの物語詩をジャンクロード・カリエールの脚本をもとに、1979年のアヴィニオン・フェスティヴァルで上演した。このとき既に私は劇団の音楽家として参加していて、この音楽作りがもとで次作の『マハーバーラタ』の音楽監督・演奏を全面的にまかされるようになった。というのも、実はこのアヴィニオンフェスでは『マハーバーラタ』を上演すべく劇団は準備を重ねていたのだが、ブルック、カリエールが脚本を構築するうちに予定していた物語の一部ではなく、壮大な叙事詩の全編を演劇化するという方向に変え、この時点で以前から何度か実験を繰り返していた『鳥の会議』(原題は「鳥の言葉」)の劇化に踏み切ったのだ。ここではそのプロセスは省くが、今回の劇はこの『鳥の言葉』の詩をいくつか折り込みながら展開する人間の脳の神秘を描く、ブルックいうところの演劇的探求である。

<アヴィニオンでの「マハーバーラタ」公演で、ブルックとカリエール>

 この人間の脳を主題にした作品は1993年の『マン・フー』に端を発するもので、神経学者のオリバー・サックスとの出会いが影響している。『マン・フー』はサックスの『妻を帽子と間違えた男』の演劇化でこの著作に登場する精神障害をもった患者を4人の役者が医者に患者にと入れ代わり立ち代わり演ずるもの、音楽を私と『マハーバーラタ』の音楽を共にしたイラン人のケマンチェ奏者マモード・タブリジ・ザデーが担当していた。(私は1988年に『マハーバーラタ』公演が東京で終わり一段落した時点で、桃山晴衣と活動拠点の郡上八幡で新たな活動を始めたため、後をマモードが担当するようになった)。しかし、そのマモードが予期していなかった重病になり『マン・フー』上演途中で亡くなってしまったのだ。日本公演のときには、彼の実演ではなく録音音源が使われていた。マモードはケマンチェという繊細なイランの伝統擦弦楽器の奏者であると同時に、いくつかの楽器も演奏できる柔軟性を有した音楽家でブルック劇に欠かせない音楽家となっていただけに、彼の死は大きかった。私が再びブルックから依頼を受けたのはマモードなき後、『ハムレットの悲劇』を創作するにあたっての時期だった。その後、『ティエルノ・ボカール』やその英語版『11&12』と以後、今に至るまで『魔笛』『スーツ』などの西洋音楽を主にした作品以外は関わってきた。というわけで、今回の参加はマモードへのオマージュの意味も含まれている。
 また『マハーバーラタ』以来、ジャンクロードやピーターと脚本作りに加わってきたマリー=エレーンの存在が、ピーターが高齢になったこともあり年々大きくなってきている。実は『マン・フー』はマリー=エレーンが入院していた時に出会った患者や医師との経験が発端で生まれたとブルックが語っているが、この『マン・フー』についで、ブルックとマリー=エレーヌはロシアの神経心理学者A.R.ルリアの著書『偉大な記憶力の物語』(岩波文庫)を基に、『私は現象』を1998年に舞台化している。そして今回、これら前二作の集大成ともいうべき『驚愕の谷』生まれたのであるが、この作品はタイトルが示すようにペルシャ神秘詩人アッタールの『鳥の言葉』に記された隠喩を劇中に散りばめた、神経心理学的探求劇とでも題したらいいのだろうか。脚本は以前のA.Rルリヤの『偉大な記憶力の物語』を主に、幾人かの共感覚者の記録をもとに構成されている。そして今回の作品が前二作と異なるのはルリアの著書に登場する超記憶能力者で共感覚者のシィーという人物を中心に置くことで物語性が強調されたことである。

<A.R.ルリア1902~77>
 私は『マン・フー』を日本で見ていたので、オリバー・サックスの作品もいくつかは知っていたが、『私は現象』は外国での上演がほとんどなかったため、作品自体も見ていなかったし、その基になったA.Rルリヤのことも知らなかった。そのため共感覚というのも初めて聴く言葉で、今回のリハで幾人かの共感覚者と実際に会ったのも初めてのことだった。共感覚というのは「一つの感覚器官によって複数の感覚を知覚する現象」で、例えば文字や数字にそれぞれ異なる色彩を見たり、色彩に音を感じたり、音に臭いを感じたりと、一般の人が使い分けをする感覚を脳が同時にする特異な感覚である。この共感覚の研究はヨーロッパなどで古くから話題になってはいたが、一般の関心をあおぐようになったのは近年のこと、特にアメリカやイギリスで研究が盛んになり、オリバー・サックスをはじめ、ブルックが何度か会っている英国のバロン・コーエンなどの著作が一般の読者にもしられるようになったのと、今までは異常者や病人のようにあつかわれていた共感覚者たちが、自らの能力を肯定的に認めるように社会的アピールを始めだし、アメリカの共感覚協会をはじめ世界各地に共感覚者達のコミュニティーが生まれだしている。またカンデンスキーをはじめ、画家や音楽家などアートの世界で活躍する共感覚者は現在でも後をたたない。このようなアーティストとして活動している共感覚者、キャロル・スティーンやジョン・アダムス、そして今では作家としても活躍する超記憶能力者として世界的に知られるようになったダニエル・タメットなど、今回の作品作りにあたっては彼らからも多くのアドバイスを得ている。

<リハーサルでであった共感覚者アーティストのジョン・アダムス(上左)とダニエル・タメット(下右から二番目)
共感覚については日本でもダニエル・タメットやバロン・コーエン、ラマチャンドランなど数々の翻訳本が出版されているし、A.Rルリヤやオリバー・サックスの著作も一般の目にふれるようになってきているので、共感覚の話はそれらの著書に任せるとして、今回の『驚愕の谷』の話しに移ろう。(次回へ続く)
 

渡仏前、残すところ二回の「添田唖蝉坊・知道を演歌する」会と新CD発表

 昨年東京で上演されたピーター・ブルック演出「スーツ」。実はこの演劇にも参加を依頼されていたが、添田唖蝉坊・知道の演歌のコンサートや研究に追われる大事な時期だったこともあり、この作品への参加は辞退させて頂いていた。89歳になるピーターは健康管理の理由で来日しなかったが、今や彼の片腕となって演出サポートをするマリエレーヌが見え、東京で一緒に食事をしている時、パリからピーターの電話があった。次回の作品は絶対に参加して欲しいという念押しで、一応唖蝉坊演歌のCDも完成させた段階なので、今回は参加を引き受けることにした。この演劇作品については後日紹介するとして、これまで続けて来た桃山晴衣の遺産としての「添田唖蝉坊・知道を演歌する」は、2月末の渡仏を前に開催する二度のライブで、しばし日本公演に終止符を打つことになる。

<先日行われた名古屋でのライブ>
 昨年は4月の神奈川県立近代文学館における「添田唖蝉坊・知道展」での講演・演奏を始め、全国各地でこの演歌の会を催すと同時に、大冒険ともいえる二枚組CD 「添田唖蝉坊・知道を演歌する」を発表し、初めて歌の世界、しかも演歌の世界という、かつての土取利行を知る人をびっくりさせたが、この演歌が想像以上の反響で、とりわけ若い者達の興味も惹くことが嬉しい。この勢いで一昨年暮れ同様、昨年暮れも新たな「添田唖蝉坊・知道を演歌する」第二弾のレコーディングを計画し、準備を進めていたのだが、同時に演歌の起源を研究しているうちに唖蝉坊以前の壮士節や唖蝉坊演歌の背景になっている歌の方に入っていき、唖蝉坊・知道演歌の第二弾は一先ず置いておいて、こちらのレコーディングを優先して進めることにした。
 その結果、この2月16日に全国発売となるのがCD「明治の壮士演歌と革命歌」である。曲目は文明開化のテーマソングともいわれる「トンヤレ節」に始まり、社会主義者達の革命歌「嗚呼革命は近づけり」まで。明治の45年間に自由を熱望し奔走した壮士や運動者達の歌を通して、日本社会の様相が垣間見えてくるだろう。
コンサートとCDの詳細を以下に。
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土取利行「添田唖蝉坊・知道を演歌する」
【姫路公演】
2月2日(土)開場14:30 開演:15:00
会場:MOCCO(コワーキングスペース・モコ)
姫路市綿町76 こうしんビル2F
入場料:前売り3000円 当日3500円
予約問合せ:090−4277−5682/ 090−6060−8204
mail/ banshu.fan@gmail.com
オフィシャルサイトhttp://banshu-fan.jimdo.com

【東京公演】
2月9日(日)開演:15:00
会場:シアターX(カイ)
東京都墨田区両国2−10−14
入場料:全席1000円(シアターX主催レパートリー劇場価格)
予約問合せ:03−5624−1181
mail / info@theaterx.jp
オフィシャルサイトシアターΧ(カイ)|東京両国の演劇芸術を中心とした劇場

CD案内

土取利行「明治の壮士演歌と革命歌」RG-10 立光学舎レーベル
定価2625円(税込み) 全国発売日2月16日
販売元メタカンパニー 東京都新宿区新宿7-27-6 賀川ビル501
tel/03−5273−2821 mail/ info@metacompany.jp
オフィシャルサイト土取利行 明治の壮士演歌と革命歌 [RG-10] : メタ カンパニー