ピーター・ブルック『驚愕の谷』への旅(二)


<驚愕の谷@ブッフ・ドュ・ノール劇場>
 『驚愕の谷』の初演はパリのブッフ・ドュ・ノール劇場。いうまでもなくブルック演劇を語るに欠かせない、彼が40年近くにわたって活動の拠点とし、演劇史に残る多くの作品を創作し上演してきた場所だ。この劇場の歴史は古く、創設は1876年(明治9年)にまで溯る。劇場は開設以来、何度も経営者やディレクターの変遷を繰り返し、1904年〜1914年にはモリエール劇場として多くの作品を上演。その中にシャンソン・リアリテの改革者アリスティード・ブリュアンが自ら「舗装の花」という作品を上演して話題になったとの記録もみえる。当時この界隈で人気を博していた彼だからありえることだが、まさかこの劇場に彼の声が響き渡っていたとは感動的である。

<アリスティード・ブリュアン>
その後もブッフ・ドュ・ノール劇場は演劇や音楽の劇場として様々な変遷を繰り返し1952年に国から建築物老朽化の警告を受け閉館となってしまう。そして22年の風雪に晒されて朽ち果てようとしていたこの劇場は、ロイヤルシェイクスピア劇団を離れ演劇の再考を試みてアフリカに旅立ち帰還して来たピーター・ブルックと以後彼の創造を可能にさせた豪腕プロデューサー、ミシュリン・ロザーヌ女史によって1974年に再開され、最も前衛的かつ新たな実験の場として光り輝くことになっていく。ブルックとミシュリンがこの劇場を訪れた時、中は廃墟同然で雨や風で壁は至る所に穴があき、崩壊した瓦礫が山と化していたが、100年経ても建物の骨格は崩れておらず、むしろ威風をはなったこの劇場を、ブルックはこのまますぐにでも使用したかった。彼らは政府の援助と許可を申請するも、許可と費用の審査には二年を要するとの返事。ミシュリンはこの返事を認めることが出来ず、当時のフェスティバル・ド・トーヌのリーダー格だったミッシェル・ギーの助力も借り、その年にこの劇場でフェスティバル参加作品としてブルックの『アテネのタイモン』を上演して再開を可能にした。

アテネのタイモン@ブッフ・ドュ・ノール劇場1974年>
 私がこの劇場を訪れたのは、この翌年の1975年。チベット死者の書を基にしたヨシ笈田演出の実験劇『般若心経』の公演会場がブッフ・ドュ・ノール劇場だったからだ。笈田氏はこの時すでにブルックがアフリカ縦断の旅に出たときのメンバーでもあり、75年のフェスティバル・ド・トーヌに日本で製作した自らの作品を持って参加した。そして、私はその音楽を担当したことから、ブッフ・ドュ・ノール劇場で、ピーター・ブルックとも初めて出会うことになったのであるが、この時の私の動向については他の場所でも記しているので省略する。こうした縁があって私はさらに翌年からブルック劇団と即興劇の旅へ、そしてその翌年の77年にはブッフ・ドュ・ノール劇場でのブルック演出『ユビュ王』の音楽を担当することになり、以後劇団の音楽家として『鳥たちの会議』『マハーバーラタ』『テンペスト』『ハムレットの悲劇』『ティエルノ・ボカール』『11&12』などをこの劇場で上演してき、振り返ってみれば今回の『驚愕の谷』で40年近くこの劇場と付合うことになっていたというわけである。

<「テンペスト@ブッフ・ドュ・ノール劇場>
 数多くのピーター・ブルックの伝説的作品を生み出して来たブッフ・ドュ・ノール劇場であるが、現在この劇場は実質的にブルック、ミシュリンの手から離れ彼らの下で働いてきたオリビエ・マンテイと現代音楽畑で働いて来たオリビエ・プーベルの二人をディレクターとして継続されている。このバトンタッチが行われたのは2010年私が音楽を担当したブルック作品『ティエルノ・ボカール』上演期間だったと思う。ミシュリンの体調がすぐれず、これ以上プロデューサーとしての仕事ができなくなったというのが大きな理由だろう。この時点でブルックは前述の二人にプロデュースをまかせ、ブッフ・ドュ・ノール劇場の今後が問われることになった。「ブルック引退」の記事が新聞でも取り上げられたので、演出活動もやめてしまうのかと思っていたら、その後も『11&12』『ベケットのフラッグメント』オペラ『魔笛』再編版『スーツ』を立て続けに演出し、今度の『驚愕の谷』が89歳の新作となったのである。

<赤の森、ブッフ・ドュ・ノール劇場での「ティエルノ・ボカール舞台>
 ブルックが劇場のディレクターとして君臨していた2010年まではほとんど他の公演にこの劇場を貸すこともなく、彼の理想を実現するためにこの劇場がリハーサルから公演まで一貫して用いられて来たが、今は劇場経営もあり、音楽と演劇を主にした他のプログラム公演が組まれていて、以前のようにブルック自身が自由に使えることが難しくなってきた。そのため、『驚愕の谷』のリハーサルは半期間を他の小劇場のスペースを借りて行い、残りの期間をブッフ・ドュ・ノール劇場で行うことになった。本作品は「赤い森」と形容もされたブッフ・ドュ・ノール劇場が初演となったが、壁の多くが赤く塗られたのは『ハムレットの悲劇』あたりからであろう。この劇場の装飾や塗装の一つ一つにはブルックが演出してきた作品の痕跡が残されており、久々に舞台に立った今、これらの跡に数々の出演作品の思い出を重ね合わせて見ている自分がいた。

<「驚愕の谷」舞台に置かれた土取利行の楽器>