【土取利行の邦楽番外地】添田唖蝉坊・知道の明治大正演歌を唄う旅2012年11月

パートナーの故・桃山晴衣が直接20余年にわたって添田唖蝉坊のご子息で演歌二代ともいわれる添田知道師から学んだの演歌の本道を伝えるべく、一昨年前からスタートした土取利行の演歌巡礼は、今年から全国各地に拡がっています。この11月公演は今年最後の巡礼となるので是非お出でください。今回は三味線とエスラジの、撥絃・擦絃楽器を伴い唄います。

<岡山県西大寺での邦楽番外地コンサート会場>

岡大介・浅草木馬亭独演会・唖蝉坊生誕140周年の会で客演>
2012年11月巡礼地予定
<松本>
日時/11月17日(土)開場18:00 開演19:00
会場/cafe&garally・ラボラトリオ(長野県松本市大手1-3-29)
前売り3000円 当日3500円 予約0263-36-8217
甲府
日時/11月18日(日)開場14:30 開演15:00
会場/甲府・桜座(山梨県甲府市中央1-1-7)
前売り3000円 当日3500円 予約090-6155-9628
岡山県玉島>
日時/11月25日(日)開場14:00 開演14:30
会場/玉島・円通寺良寛修行の寺)岡山県倉敷市玉島柏島451
前売り2500円 当日3000円  予約090-5378-5433
詳細はホームページでご覧ください。

桃山晴衣の音の足跡(40)  ハムザ・エルディーンとの出会い


<桃山晴衣とハムザ・エルディーン:スタジオ200>
 桃山晴衣が1980年の9月を機に自ら働きかけ、自らの足で出かけ唄い続けた「梁塵秘抄ツアー」はひとまず一年半で区切りをつけた。「いくら書いても書き尽くすことのできない、清々しい想い出と感激的な交流。そこから派生した創造的な出会いを残して・・・。まだ未整理の状態でハッキリと掴めていたわけではなかったが、私はそれらの人々のすべてから、確かな手応えをもらったような気がしていた」と記すこの自主自営コンサートは、これから音楽活動を進めて行く上での大きな指標となったにちがいない。気力体力ともに磨り減らしたであろうこのツアーが終わって、彼女が東京にもどると、ヌビア出身のウード奏者で弾き唄いのハムザ・エルディーンが日本に滞在中であるという連絡が入り、梁塵秘抄のレコーディングでも何曲かウードを使用していることから(この時はギタリストの石川鷹彦氏がウードを演奏していた)会いにいった。桃山は「梁塵秘抄」の作曲をするにあたり、日本古来の音だけでなくシルクロードの音楽に関しても多くを聴き、ハムザのレコードは特に何度も聴いて気に入っていただけに、彼から音楽について色々と話を聞けるのが楽しみだったが、事は急展開で西武のスタジオ200でジョイントコンサートをということになった。アフリカ、スーダンのアスワンハイダムの建設と砂漠の浸食によって故郷を失くしたナイルの上流ヌビア出身の彼は、500万のヌビア人の内一人だけ<専門の音楽家>になり、アフリカの唄をアラビア音楽にのせてウードで弾き唄うという奇跡の楽士である。本来なら「梁塵秘抄ツアー」の疲れを癒さずにはいられなかったところだが、「自分と重なるところの大きい」というこのヌビアの楽士を紹介したいと、1982年の6月から7月にかけて、名古屋、京都、福島をジョイントコンサートで巡り、二曲ほど中村とうよう氏のプロデュースでレコーディングも行った。(このレコーディングは桃山晴衣のLP「鬼の女の子守唄」1986年で発表され、現在は日本伝統文化振興財団から同タイトルのCD盤で発売されている)
 ハムザとのコンサートでは、桃山は「梁塵秘抄」やハムザとの出会いで作ったという「うらうら椿」など新曲ばかりを選んでうたった。そして同時に彼女は「共演とはいっても私は彼の音楽のすべてを紹介したいということと、彼と接することによって音楽の背景を探りたいという気持ちが強く、国を異にする二人の音楽家のセッション」とは趣を異にしていたと云う。それでも桃山晴衣にとって始めての体験となったアラブ、アンダルシアの名曲中の名曲「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」は、ウードと三味線、ヌビアの男性と日本の女性がこれまでどこにも聴かれなかった異なる絃と異なる声を交差させ築き上げた名作となっている。(YOU TUBEではスタジオ200のライブ録音を流しているが、アラブ圏の音楽ファンからの賛辞が多くよせられている)

桃山晴衣&ハムザ・エルディーン「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」ライブ録音@スタジオ200>
 とはいえ、この「ランマー・バーダー・ヤタサンナ」、実は「何度も投げ出したくなった」と桃山は云っている。「ウードは長さ15センチ、幅1センチほどのへらへらしたピック用のもので弾くので、柔らかい音が出る。うねりながらねばってうたうのに、その音が実によく合う。ところが三味線でうたうと素っ気ないことこの上ない。うねってうたおうとすると弾く方がとてとてになってしまう。そういうわけでとても難しいというと、伴奏と同じことをしているだけだとバカにしたような顔をされる(ように思えるのだ)。私は手首から先をへらへらと柔らかく動かして弾く練習をして、何とかサマになる様にこぎつけた」と、桃山はその苦労を後日談で語っている。
 桃山晴衣はこのハムザとのジョイントから改めて言語と楽器というものを深く考える様になった。そして自分がなぜ三味線にこだわるのかと聴かれると、「日本語と三味線はピッタリだから」と答えていたのだが、その答えの深意を彼との共演でさらに知らされたと云う。さらに桃山はこうも云っている。「三味線はアタック音が強い。メリハリと切れのよさを大切にし、一音ずつをとことん味わおうとする日本の音楽は、余韻から間にいたるまで、徹底してそちらに重点がおかれるために、規則的に刻まれるリズム等を無視してしまって自由自在、演奏のたびに違う、即興性をはらんでいる。日本の音楽は流れる水のように変化して行く。物語性を帯びているというか、構造的には場面、場面で展開されていくように構成されているようだ」と。またこのコンサートでは、観客でみえたフランス人が「彼のタール(ヌビアの太鼓)だけを本物と認めぞっこんだった」のに対し、彼女は「ウードでうたわれるオリジナルに親近感を持つ。アフリカのうたをアラビア語音楽にのせ、イタリアっぽい変化がある。それは故郷を失った人の音楽にふさわしい。・・・そしてそれは、日本とは、自分とは何かを拾い集めている私とどこか重なる」との感想を述べており、そこに常に前進して止まなかった彼女の気概を感じる。(今は桃山晴衣、ハムザ・エルディーン、そして二人の唄と演奏をプロデュースして記録してくれた中村とうよう氏もすでに昇天されてしまった)

野尻抱影が書いた鹿島清兵衛との出会い

 桃山晴衣の遺した添田知道関係の書物に「素面(すめん)」という機関誌が多くある。この「素面」は、知道師が同行者とともに昭和36年(1961年)から昭和55年(1980年)まで、20年間にわたって発刊してきた同行誌(知道師は同人とよばず、お遍路用語の同行を好んだ)で、知道師の逝去された年の「添田知道追悼記念号」を以て終巻となっている。随筆や短歌、詩などがさまざまな同行者から寄せられ、実に多彩な内容が網羅されており、こんな人までという驚きもある。桃山も65号(1977年)に「日常生活と「イキ・呼吸・マ」」という文章を寄せている。

これらの同行誌に目を通していると、こんな人までがという一人の寄稿者に野尻抱影(1885年 - 1977年)の名があった。よく知られた英文学者にして天文民俗学者、そして名随筆家で、「素面」には何回か寄稿されているが、とりわけハッと驚いたのは、桃山晴衣の大叔父にあたる鹿島清兵衛と妻のポンタのことが書かれてある文章である。これを寄稿しているのが1976年とあるので、野尻抱影翁の逝去する一年前の随筆ということになる。そこでは抱影が鹿島清兵衛とポンタの経営する写真館を訪れたときの様子が描かれている。添田知道師、鹿島清兵衛に野尻抱影が加わってくるとおちおちしていられない。ともあれこの貴重な翁の文章をそのまま以下に紹介しておこう。

「河庄」 野尻抱影
申すまでもなく、『天の網島』の舞台に出る新地の茶屋で、先夜の文楽でも門行燈に「河庄」とのびやかな字を見た。むろん「カワショウ」で、原作でも半二の脚色でも同じ読みだが、ただ私は「カワショ」と言いつけている。
 先代鴈治郎明治44年5月に17年ぶりに東上して、新富座で最初の「河庄」を演じ、大当たりを取った。粉屋孫右エ門は名優梅玉、小春は芝雀である。その時に花道の出で、例のシャーシャー声で、確かに「侍客にてカワショカタ」と言った。これを「カワショウ」と言ったのでは間延びがする。(鴈治郎はどうだか、文楽の語り口はどうだか、確かめていないが)
 「魂抜けてとぼとぼうかうかうか」の草履のくだりも、末広座の型というのをわざわざ見に出かけたものである。ところで、ここに書く河庄は、明治42年の春、春木座で見たもので、鴈治郎のはずはない。或は新派の喜多村緑郎で、小春が河合武雄だったかも知れないが、調べないと判らない。私はその前年、甲府の教師になっていたのが春休みに帰京して、夜、今いうガールフレンドと電車で立見に行った。
 彼女は平塚雷鳥もでた麹町の文芸学院の女学生で、モガの走りだった。そのグループの金色夜叉の試演には、お宮と、二役の女アイスでは黒眼鏡をかけ、パラソルをついただけで、シャンシャンとやり、喝采された。
 鉄棒の立見席で、ゆっくり観られた。私は満足したが、彼女は口をたたいて生ま欠伸を隠していた。終わると、この近くでポンタが旦那さんと写真館をやっていると新聞に出てたから、寄って写して貰いましょうと言い出した。
 私は直ぐ山国に帰るので、これは河庄の好い記念になると賛成したが、ポンタの名がいきなり飛び出したのにはびっくりした。明治美人伝の筆頭で、写真大尽とよばれた鹿島屋清兵衛と艶名を歌われたことぐらいは聞いていたが、その夫妻が新橋には遠いこの本郷春木町へ流れてきたのは世を忍ぶ身のあとや先き、よくせきの事情があってのことと思われた。しかし、世間知らずの書生っぽが好奇心ばかりむずむずしていたのは仕方がない。何を措いても、ポンタが見たかった。それに、夜間撮影というのもまだ珍しい時代だった。

<鹿島清兵衛とポンタこと恵津子夫妻:明治32年京都で写す/清兵衛を叔父とする桃山晴衣の父、鹿島大治長谷川伸に提供した貴重な写真>
 写真館は暗い横町にあった。ドアを押すとすぐ撮影室だったように思う。ガランとして、電燈の光も隅ずみまではとどいていなかった。中央に蛇腹で伸縮する大きな暗箱が三脚を張っていた。夫妻は丁寧に私達を迎えてくれた。70年も前のことで、印象はぼやけているが、清兵衛氏は清方描く円朝のような風貌ではなかったか?確か前垂れかけで、暗箱のうしろで黒い布をかぶっていた。ポンタは40がらみの上品なご新造で、小ぶりの丸まげに結い、姥桜どころか若々しい美人だった。大阪で小指を切って客に投げつけ、新橋に出てからも勝ち気でならしたというのだが、実にまめまめしく夫の助手として動き回り、私達を明治期に普通だった背景用の衝立の前に並べ立たせ、手を取らぬばかりにして位置を決めてくれた。こうしている間に、私はだんだん後悔めいたものを感じはじめた。零落しても曽て高名だった夫妻の前に、どこの馬のホネとも知れぬ書生っぽが、小生意気なモガと突っ立っている。それが済まない気持ちでいっぱいになって、早く時間が経ってくれと思ったのだ。
 やっと終わって、外の冷ややかな夜風に当たったときにはほっとした。彼女は、ポンタさんがフラッシュをぼっとやったときはつい目をつぶってしまった。きっとうまく写らなかったわといった。そして飯田橋までぶらぶら歩きながら、ポンタがまだ美しかったことや、この先、仕合せでいてくれればいいなどと、話して行って、別れの握手をした。
 甲府へは、彼女から、写真はやっぱり失敗でしたと送ってこなかった。撮影は成功でも、自尊心を傷つけられたためかもしれない。ともかくモガとしては美しいほうだった。私が東京に転勤してから、一度品川で見かけたことがある。子供を連れた令夫人で、サングラスをかけていた。昔の女アイスを思い出しておかしかったが、その蔭の目は、たぶん私と心づかなかったろう。
 最近、物識り博士、植原碧々亭から、鹿島清兵衛の失脚はマグネシュームの爆発で大火傷をしたからだと書いてきたので、思わずゾーッとした。春木町の撮影室がほの暗かったのは倖いだった。・・(素面63号1976年11月)

土取利行・邦楽番外地:岡山西大寺、京都メトロ大学公演から

 これまで我が立光学舎と東京の馬喰町ART+EAT、サウンドカフェ・ズミで行ってきた明治大正演歌・添田唖蝉坊、知道の世界、名付けて「土取利行・邦楽番外地」の公演を、初めて他県で本格的に行うことになった。

岡山・西大寺での「土取利行・邦楽番外地ライブ」
 その先頭を切ったのは岡山県、これまでも私のコンサートやレクチャーを何度か開催してくれている日高奉文氏の熱意あるプロデュースによるもので、会場には全国一といわれる裸祭で知られる西大寺の観音院が選ばれた。日高氏とは私が1977年だったか、ピーター・ブルック劇団で「ユビュ王」の公演をロンドンで行っていた時に、楽屋に訪ねて来たのが初めての出会い。役者志願者であった彼は、日本の演劇学校に限界を感じて、一人ロンドンに旅立ち異国の文化や演劇に触れ、学んだ後、帰国後は北海道の富良野塾創立メンバーとして活動し、1988年に私がブルック劇団で「マハーバーラタ」の東京公演を行った時に再会、以来ワークショップに顔を見せる様になり、しばし東京で桃山晴衣と私の仕事にも立ち会ったりしているうちに、今の岡山県西大寺に居をかまえるようになった。その岡山での活動先は、西大寺からかなり離れた地にある同県美星町の中世夢が原。高地の広い敷地に木造小屋や茅葺き家屋が立ち並ぶ、この中世テーマパークといった場所で、彼は地元の人たちと茅屋根を修復したり、草刈りをしたり、薪割りをしたりと、忙しく働く中、独自に数々のイヴェントをこの地で開催し、地元はいうに及ばず全国各地の人々に働きかけてきた。そして昨年は遂に中世夢が原の園長となり、開園記念事業として私と韓国の舞踊家キム・メジャさんとカンパニーのパーフォーマンスを開催し成功裏に収めた。そして今年、その園長を辞して企画者としての独自の道を歩むことになり、最初の企画として選んでくれたのが私の「邦楽番外地」だった。彼はこれまで私の演奏会やレクチャーを三度ほど、夢が原や岡山で開催してくれているが、今回の「邦楽番外地」は明治大正演歌という、一般には馴染みのない、企画者としては何とも人を説得しがたい難解な出し物、そのため半年前から岡山中を情報宣伝とチケット売りに奔走した。「演歌」という言葉は本当に誤解され続けてきた。そもそも明治時代に自由民権運動を推進してきた壮士達が、御法度となっていた政府批判の演説をカモフラージュさせる手段として始めた演説の歌が「演歌」だったのだが、大正12年関東大震災後にラジオやレコードなどが普及し、それまで読売(歌詞を書いた紙)を売って自らの足で人から人へと唄い歩いていた演歌師達も段々とラジオやレコード専用の歌手になったりと、歌の伝播形態が大きく変わりだし「演歌」の終焉時代を迎えたのであるが、流行歌や歌謡曲という言葉と並べて「演歌」という言葉が「艶歌」に変えられ、「演歌」=「艶歌」として歌謡曲の一ジャンルの如き扱いをされるにいたったのである。唖蝉坊はこうした演歌の名称の誤りについてこう記している。
 「流行歌の読売をすることを、その仲間で<演歌>と称し、その業者を演歌屋と称する。これは壮士節発生当初に於ける読売唄本が「自由演歌」と題したことに起因する。そして演歌とは歌を演ずるという程の意味である。新聞雑誌が誤って<艶歌>と称し、<演界屋>と伝えたるは、おそらく法界屋と混同したる滑稽でもある。私は大正8年より三年間にわたり、ささやかながら唯一の流行歌雑誌「演歌」を発刊して、これ等の誤りを正すべく微力をいたした。それより斯る滑稽は減じたが、その代わりに今では香具師(てきや)と類して演歌師などと称されるようになった。然し尚、演歌は法界節から生まれたなどと、したり顔をして説く者もあるから驚く。法界屋や改良剣舞が演歌の派生であることは本文に説いてあるから省くが、酒唖々々とした迷説の横行にはただ呆れるほかはない」(流行歌・明治大正史)
 このように大正時代からすでに「演歌」が正当に理解されず、とりわけ新聞・雑誌などのマスコミによって「艶歌」と称されるにいたり、その迷説、迷語が昭和歌謡曲から今日の歌謡曲にまで尾を引いているのである。そして現在、一般の人たちは「艶歌」が「演歌」だと、まったくの誤認に至っているのだから、土取利行が「演歌」を唄うなどといえば、「なんでまた・・」といったあきれた返事が返ってくるのも当然だろう。そんなリスクの大きい「演歌」コンサートを引き受けた日高氏であるが、やはり説得するのは苦労し、しかもお寺を借りれる日が金曜しかなかったため、土、日にしか来れない人が大勢いたことも問題だったと。

しかし、コンサート当日、西大寺観音院大広間にはぎっしりと150名を超す観客が集まった。中には「艶歌」と思って来た人もいただろうが、三味線を手に唖蝉坊の「あきらめ節」を唄い始めると皆耳をそばだて始めた。前日、やはり西大寺の五福座で唖蝉坊と演歌についての講座も持ったのでそれを聴いた人は「演歌」が何であるかがよくわかっただろうし、コンサートでも唖蝉坊と演歌については歌の合間を縫って説明していったので理解してくれたと思う。また音響、照明をプロが受け持ってくれたため、初めての本格的コンサートとなった。私がゲストに呼んだのは、夏の立光学舎でのコンサートに出演いただいた岡大介くんとベースの山脇正治氏、このトリオが絶妙な演歌サウンドを生み出した。客層もお年寄りから青年、子供まで実に多層で、非常に反応がよく、あっという間に二時間が過ぎた。良きボランティアスタッフにも恵まれ、半年間、炎天下を手書きのチケットを自らの足で売りに奔走した企画者、日高氏の労が報われた形で本当によかった。
 翌朝は岡山からスタッフ井上の車で京都へ直行。かつて70年代に京大西部講堂などを拠点に近藤等則などと活躍していただけに、いまだその頃のフリージャズやフリーインプロヴィゼーションのドラマー、パーカッショニストとしての面影を色濃くもたれているこの地でも土取利行の「演歌」の会というのは、やはりこれまでの私を知る人であればあるほど理解しがたい出来事だろう。会場は地下鉄京阪神丸太町駅の半地下入口に在る「クラブメトロ」、時代の趨勢か、かつては多く軒を並べていたジャズ喫茶に変わってここ数年、学生や若者達のDJスポットとして注目されてきた店で、最近では店内での踊りとからむ厄介な風営法に悩まされているとか。こうした風営法問題も、もとを辿れば演歌師たちの時代、町のあちこちで唄い踊れたものが禁止され、すべて室内に閉じ込められてしまったことと大いに関係する。ともあれ、ここは岡山とは異なるレクチャーとコンサートを分けた二部構成のプログラムで行った。一部では「Real Tokyo」の編集長で各種イヴェント、メディアのプロデューサーでもある小崎哲哉氏に対話を引き受けていただき進行した。小崎氏はこの日のために、わざわざ郡上立光学舎での「うた塾」に三日間足を運んでくれ「演歌」についても理解していただいていたので助かった。時間が短かったために多くは話せなかったものの、興味深い話もうかがえ、その一つに「音楽」という言葉が明治このかた意味もなく使われてきているという私の話に、実は「美術」という言葉もそうであり、なんとこの言葉が日本のメディアに登場し始めるのが、唖蝉坊の生誕の年だというもの。「音楽」「美術」というこの明治時代の産物、いわばそこに「西洋」をつけたこれらの言葉がさらに「芸術」という言葉にまとめられ、本来の日本の諸芸が言葉としても浮き立たないまま今日にいたっているのを改めて考えさせられる。小崎氏とはまたゆっくりこの辺のこともお話しできたらと思っている。二部の唄の会は、DJの若者も多く見えていたようだが、皆興味津々で聴いてくれ、唖蝉坊のうたが、遠い過去のものではなくまさに現代の日本を唄ったものだという実感を何人もの人から聴いた。今流行のヒポップやラップは60年代のフォークやロックと同じ様に半ば商業的に仕掛けられた欧米からの移入音楽であり、それが新しいものであるとの錯覚をうえつけられてしまっているのだが、明治の壮士たちによって唄われた「ダイナマイトドン」(1883)や演歌芝居の始まりともいえる川上音二郎の「オッペケペー」(1891)などは、無伴奏、高歌高吟の先駆的プロテストソングといえる。私がニューヨークでよくフリージャズドラマーのミルフォード・グレイブス宅で話をしていた時、このラップ・ミュージックについて彼がいっていたのは、かつてマルコムXや黒人闘争家の背後で彼らのスピーチを効果的にするために演奏していたのがラップといえるもので、当時は西アフリカの音楽に根ざしたアフロキューバン奏者がハンドドラムで素晴らしい演奏をして盛り上げていたと。また演説者の言葉にも内容があったが、今は彼の住んでいる黒人居住区のジャマイカ・クイーンズで流行っている機械仕掛けのラップからは当時の言葉の強さも美しさもないと批判的であった。唖蝉坊の演歌を唄いだしてから、この言葉、歌詞の鮮明さに惹かれることが多々あり、歌というものを考え直す大きなきっかけとなっているが、これも桃山晴衣が残してくれた大切な遺産だと受け止めている。
 このように60 年代からのアメリカンポップスに邁進してきた団塊の世代の大きな欠陥は、うたや音楽というものを器楽や伴奏の魅力のみで聞き流し、うたそのものを聴いて来なかったことにある。ビートルズにはじまり、ボブマレーにいたるこれらのポップスの英語の歌詞をどれほどの日本人が理解し歌えるだろうか。また現代音楽という新種のそれも器楽が優先であることは間違いない。こうして振返ってみるにわずか半世紀、いや四半世紀のうちに日本の「うた」は器楽と機械リズムの包装に「ラップ」されてしまっているのである。これまで私はパーカッションを主体に演奏活動を繰り広げてきたこともあり、このうたということに関しては真剣に考えて来なかったきらいがあるが、桃山晴衣と活動をともにするにいたって、彼女が「私が今うたえる歌がない」と繰り返していっていた意味がいまさらのように分かってきた。京都メトロに参加者の中に、大学生でカメルーンでピグミーの音楽調査を続けているという若者がいた。彼は何度かアフリカに通ってピグミーの歌の魅力に取り憑かれていくと同時に、今ひしひしと日本人として自分の歌が歌えない、また歌う歌がないことを痛感しているということだった。そして彼にとっても唖蝉坊の「演歌」は新鮮だったに違いない。明日の郡上立光学舎での「いろりわ」の会には彼らがピグミーの映像を持参してくれるそうで、歌の問題を日本と比較しながら考えるきっかけになるものと思う。また岡山西大寺での「演歌」の観客の反応が素晴らしく、企画者の日高氏から早速この11月25日に玉島の円通寺での演歌独演会のアンコールがあった。どうも当分唖蝉坊・知道師からは離れられないようだ。桃山の三味線からも。

歌の流れと人の身は:添田知道

添田知道師の名著「演歌師の生活」の結びに掲載された近代流行歌の流れを書いた名文。日本の唄について本質的な問題にふれているのでそのまま掲載させていただきました。多くのことを考えさせられます。


添田知道(左)と演歌師・長尾吟月氏/浅草木馬館で1953年11月18日)


「歌の流れと人の身は」添田知道
 <流行>とは”佐渡佐渡へと草木もなびく”のように<なびき性>から生ずる現象である。歌もひとがうたうからわれもうたうという。ただのなびき性による流行もあるが、その歌の、節の、どういう点でか人間の心にふれるものがあってうたいたくなる、その伝染力の大小が、流行度を示すことになる。
 流行歌を時花唄と書かれたこともある。時の花。ぱっと咲く。が、はやるものはすたる。すたれたても、ほそぼそとうたいつがれるものもある。<なつメロ>という名もあったが、それがうたわれたときの時代背景が記録されていることで、別な貴重性便利性も出来てきて、そこがおもしろい。
 明治は明治の色、そして動き。大正は大正の、色と動き。それは今でもいろいろ文献があるから、それをみるとよくわかると思う。
 明治は江戸期伝来の音調をひいているが、そこには中国の音脈の流れこみもあり、それに洋楽の脈が入り込んできた。この三味一体的な、大衆的消化があったのは、素朴なものであれ、時代を生きた人間のしるしがのこっている、といえる。
 大正はさらに洋楽旋法が大衆のなかに入ってきた。これも時の花。
 流行歌の媒体をなしたものに、明治民権運動の産物で、街頭でうたった<自由演歌>の形式があって、その活動が大正期までさかんだったが、当時蓄音機といわれた、いまのレコード産業が追々の発達をしてくるに従い、また昭和初期からはラジオの発達によって、歌の流布媒体が機械化し、かつては一つの歌の流行が、都市にはじまって全国に及ぶには一年も二年もかかった口伝時代にかえて、歌唱の全国同時性が生じた。それが歌の機能と性格まで変えてきた。規格化を来した。それは人間規格化に通じもした。口伝時代には、音感度の差はあれ、一つのメロディーにも<自分の歌>をうたっていて、そこにその人の<人間>がにじみ出ておもしろかったのだが、(おかしさもあったにしろ)、その個性が均らされてきたということができる。
 ”ひとと一緒であるという安心”は”もたれかかり”と同じになるのだが、ひとがうたうからわれもうたう、バスに乗りおくれるな、この一連の心理が”右へならへ”に従っていれば安全とするに通じる、いみじき人間の弱さであった、この盲点がうまく利用されたということ。本来、流行とは結果現象なのだが、マスコミの企業家に従って<作る流行>が生じた。製作流行歌の時代がきた。これが昭和である。レコードによる<歌謡曲時代>がそれで、<道頓堀行進曲><波浮の港>などにはじまって<君恋し><祇園小唄><唐人お吉>から、<影を慕ひて>の恋慕調、<酒は涙かため息>かの、絶望型の古賀メロディーとなる。<島の娘>が勝太郎のセクシャル声調で爆発的な流行をみると、<東京音頭>から<さくら音頭>につづく音頭時代になる。が、<赤城の子守唄>の哀感から<国境の町>以後満州ものが多くなって、<生命線節>などと、シナ事変のきざしが濃くなってきた。
 しかしその中で<二人は若い>の青春讃歌や<忘れちゃいやよ>の甘ったれ、<とんがらかっちゃいやよ>のいさめなど、軽快調やねばり型の歌が流行したのは、時代の暗くなるなかでの大衆の心のまどいがそれに託されていたとみられる。
 ”どこまでつづくぬかるみぞ”でいよいよ戦中の支離滅裂がきたことはいうまでもなかろう。それにしても”出てこいニミッツマッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし”が我が身にかえってくることであったろうとは。
 戦後は<りんごの歌>であけた。ラジオがこれを全国的にうたわせた明るさだった。だが、よくわかるとうたった”リンゴの気持ち”が何であったかは、つかめていなかった。占領軍の支配下にそれがつかみきれぬままにゆがめられていったといえる。”こんな女に誰がした”(歌題は<星の流れに>)は、誰も彼もにどういう点でかぶれる傷口の共感があって流行したのだろう。それが<ブギウギ>のヤケを呼んだ。ジャズは大正期にすでに入ってはいたが、占領下のアメリカ調の流入は激しかった。
 <異国の丘>や<ハバロフスク小唄>の傷痕をいだきながら、ブルース、ルンバ、タンゴと明け暮れた。<水色のワルツ><湯の町エレジー><長崎の鐘>、さすらいtp哀感。たまに<銀座カンカン娘>でハッスルなどといわれたあばれを見せても、それはみゆき族の沈黙の佇みに行き着いただけであった。
飲めば<トンコ節><ヤットン節>のワイザツ。芸者を買えない<芸者ワルツ>。すべて作られた太平ムードの瞬間のまぎらわしである。死んだと思った<お富さん>が出て来るのも、混乱期の現れであったし、だからせめて<有楽町で会いましょう>だった。それが、”解放された”という男女の生態で、何か満たされない思いのままの<有難や節>の自棄発散ともなった。
 十代の反抗。非行少年と名付けられ、はびこった。”わかっちゃいるけどやめられない”と<スーダラ節>はおとなへの皮肉をちょっぴりのぞかせながらもスイスイと踊ってしまった。根なし草の悲しみが歌になる。<王将>も”吹けば飛ぶよな”だからこそうたわれたのである。吹いても飛ばなかったら流行歌にはならない。”上を向いて歩こう”も”涙がこぼれないように”であるから上を向いた。高度成長のキャッチフレーズが大衆の生活実質とはならぬことと符節が合ってあわれである。<お座敷小唄>も富士の高嶺の雪はなるほど美しいが、ちまたの雪はぬかるみとなる。”松の木ばかりが待つじゃない”ので、いくら待ってもいい便りとは、向こうからやってくるものではない、とまではわかっていても、出かけて行っても戸締めをくらたり、そっぽを向かれたのでは、どうしようもない。
 この、どうしようもないこころが、うまくキャッチされて、これらの唄が大量製造されてばらまかれる。何か、どこかで、その満たされぬ心にふれてくるから、みながうたう。だがうたってみるだけのことで、瞬間はまぎれるだろうが、しかとした手応えはないから、所詮は泡である。泡は消える。はやるものはすたるとはこれである。が、かきまわせばまた泡は立つ。泡を立てていなければショウバイが成り立たないので、せいぜいかきまわすはかない。そして<骨まで愛して>と、作って売る方も、買ってうたう法も”骨までぬかれる”ことになる。
 戦後二十年のかきまわしで出来た、数え切れない歌・唄・謡の節はちがえど、テーマは魂の<さすらい>であり、その根なし草の哀感をまぎらわす”瞬間のセクシャル・ムード”につきたといえる。その点大衆は底なしの正直だといえる。だから、商魂社は繁昌するのである。
 この流行歌謡曲の洪水の、半面に、いまは民謡時代、といってよいほど、各地の民謡の北から南のはてのものまでも、ほり出されて、流行歌と同じに、うたいはやされている。これはどういうことなのか。
 外来ムードにうつつをぬかすばかりではない、という現れなのだろうか。民族性の再把握をしようということか。民族のもつ音律というものはたしかにどの国にもあるものだから、日本におけるその再確認という動きなのだろうか。何々温泉、何々センターの舞台でうたい踊るおじさん・おばさんたちの姿から、何を感じとったらいいのか。
 しかしまた、本来郷土の声である民謡が、洋楽旋法の流行歌謡曲調で破壊されているのも事実である、それが少しも疑われていないようでもある。流行歌も社会心理学の対象物である。いや、現在では社会病理学のものとさえなっているのである。  <初稿:月刊「国民百科52」(平凡社)>

「土取利行・邦楽番外地:添田唖蝉坊・知道の明治大正演歌の世界」岡山〜京都公演のお知らせ

岡山公演

「土取利行・邦楽番外地:添田唖蝉坊・知道の明治大正演歌の世界」故・桃山晴衣さんに捧ぐ
出演:土取利行(唄・三味線・打楽器)
   岡大介(唄・カンカラ三線
   山脇正治(ベース・沖縄三線
日時:9月7日(金)19時開演
会場:岡山・西大寺観音院(大広間) 入場料:3500円
予約・問い合わせ:オフィスヒダカ 086-942-4214
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前夜祭レクチャー「添田唖蝉坊・知道演歌二代について」出演:土取利行
日時:9月6日(木)19時開演  
会場:五福座 岡山市西大寺中3-8-8
詳細/

京都公演
「メトロ大学:土取利行の邦楽番外地レクチャー&ライブ」
添田唖蝉坊・知道の明治大正演歌の世界〜
出演:土取利行(唄・演奏・レクチャー)
   小崎哲哉(聞き手)
日時:9月8日(土)開演18時〜20時
会場:クラブメトロ(京都市左京区川端柳町下がる)
入場料:2500円ドリンク代別途

「炎夏」の「演歌」/ 郡上・立光学舎での「うた塾」とコンサート

 今夏8月10(金)11(土)12(日)の三日間、立光学舎においてワークショップ「うた塾」を開催した。「うた塾」はかつて桃山晴衣が、立光学舎や東京のシアターXなどで、日本のうたを教えるために設けたワークショップで、最初は役者を目指す若者に基礎的な身体運動、発声等を教えようとしたのだが、あまりに声の出し方がおかしくなってしまっているのと、きちんと日本語を喋ること自体ができなくなってしまっているのに驚かされ、その後うたうことを通して、本来の自然な日本人の発声や日本語を学んでもらおうと取り組んで来たという経過がある。

<うた塾参加者と唖蝉坊の「ラッパ節」を唄う> 
 桃山はよく「私には唄えるうたがない」と、現在巷に日替わりメニューのように次々と消費されていく流行歌について語っていた。60年代、70年代、80年代とロックやフォーク、Jポップとよばれるいわゆる米国産流行歌をコカコーラやハンバーグとともに供給され、当時の若者がまさに時代の潮流に乗り遅れまいと我も我もとギターやエレキ、はてはシンセサイザーと電気楽器に囲まれて現在にいたる中、桃山はそれまで東京界隈に鳴り響いていた三味線とうた声が次々と生活の中から消えて行くのを目の当たりにし、このままでは日本のうたは壊滅してしまうと、邦楽界から独り飛び出し、同時代の若者たちに様々な働きかけをしていった。この頃の桃山晴衣の活動についてはこのブログの「桃山晴衣の音の足跡」で述べているので参照していただくとして、これを機に彼女はこれまでの古典や邦楽を基に、現代の若者にも響き合える独自の唄を作って唄い語る様になり、「婉という女」のような長編現代語かたりや「梁塵秘抄」のような短い唄をオリジナル作品とし、世に問うていった。そして桃山が最も意識していたのが、生活、しかも庶民の生活から生まれでる流行歌(はやりうた)の存在だった。そして近代流行歌の源流ともいえる明治大正演歌を、それまでご意見番としてお付き合いいただいていた添田知道師から直接学ぼうと晩年の知道師宅で半内弟子生活を続けた。添田知道師はいうまでもなく演歌の元祖といわれる添田唖蝉坊の長男で、自らもラメチャンタラ・ギッチョンちョンでパインッパイのパイで知られる「東京節」や「復興節」など数々の演歌を作詞・作曲し、演歌師としても全国を廻っていたが、知道師は演歌研究家の野沢あぐむ氏が「一人で四役役割を果たした」というように、作者、演者、継承者、史家の役割を一人でやってのけてしまった才人である。作者としては「演歌師の生活」「てきやの生活」「日本春歌考」「演歌の明治大正史」「ノンキ節ものがたり」「冬扇簿」「春歌拾遺考」そして明治に始まった日本の教育問題を実際のルポルタージュを基にして書いた長編小説「教育者」等々、すべては経験知にもとづいたユニークな作品を残している。演者とは、自らも演歌師として活動してきたということ。継承者とは父・唖蝉坊の演歌を作詞・作曲家として発展継承させたということ。そして史家とは、先の「演歌の明治大正史」という演歌つまり近代日本の流行歌の歴史を詳しく記したことと、さらに重要なのは1967年に監修者として全曲を吟味しまとめた「うたと音でつづる明治・大正」のLPの制作をしたことである。こうした知道師の文才によって唖蝉坊の演歌の仕事はさらに理解が深められ、一般はもとより知識人にも理解されるようになったことはとても重要なことである。ということで、桃山が知道師から演歌を学んだということは、単にうたを学んだだけでなく、このような近代流行歌の歴史を具体的に学んだということでもあった。そして彼女にとって大きな体験となったのは知道師の紹介で荒畑寒村の「寒村会」に行くようになり、寒村氏や堺利彦の娘、近藤真柄さんたちと会をともにし、そこで演歌をうたったことだった。ここで桃山は演歌とともに歩んで来た明治人の前でうたい、演歌の本質をつかみ取っていった。知道師は桃山と出会ったときから、彼女を「カイブツ」と呼んでいたが、まさに古曲宮薗節の内弟子を終えた彼女が演歌師の門を叩くというのは考えられないことで、邦楽にもうるさかった知道師にとっては本格的なうたを収めた桃山晴衣のうたう演歌に大きな期待と興味を寄せていたにちがいない。そして唄だけではなく彼女の文才にも目をつけていた知道師は自分の著作を次々と桃山に渡している。中でも500部限定版の「唖蝉坊漂流記」は、知道師が所有していた本で001番の印と知道師の誤字訂正の赤文字が書かれている貴重な本である。桃山はこうして実際の当事者から演歌の本質を学んだことで、自分の音楽家としての姿勢をより真剣に考えるようになったものと私は思っている。
 桃山晴衣は実際の声を聞くことのできた明治大正の流行歌、演歌を学び、唄うと同時に、「梁塵秘抄」との出会いで中世の流行歌にさらなる興味を寄せ、当時の女性、遊女(あそび)が唄っていたというこの今様歌を、現代に響き合える歌にしてゆく作業を続けていった。そしてこの二つの流行歌の背後にあるものが、庶民の唄い続けて来た俚謡や生活の一コマ一コマで唄われて来た作業歌、子守唄、わらべ唄であることから、これらの歌を実際に自分で調査し、唄うということも手掛け、特にわらべうたは亡くなるまで、子供がわらべうたを唄えるようにと、母子に教え続けていた。
 今回の「うた塾」は、このような桃山の仕事を再確認していくうちに、このままにしておいてはならないという思いから再起したもので、これまでは春か秋に開催していたのだが、今回は郡上踊りへの参加も意図して8月となった。土取利行のワークショップはパーカッション、演劇、ダンス関係者がこぞって参加するのが常だったが、「うた塾」では徹底して桃山が追求してきた唄を中心にとりあげ、私自らが唄って教えるという初めての試みでもあり、参加者が揃うかどうかもわからなかった。しかも、誰もがこの言葉を聴くと首をかしげたがる「演歌」を中心にしてワークショップなのだから。また併せて立光学舎で私自身が「演歌」を唄って公演するというプログラムも加えた。


<土取利行:明治大正演歌コンサート@立光学舎>
 お盆前と「演歌」というプログラムで参加者が来るかどうか、?だったが、コンサート同様、地元の方以上に韓国やフランス、全国各地から異なる職能の人たちが理想的な形で集まってくれた。桃山に以前から習っていたという数人を除いて参加者は「演歌」に触れ、自ら声を出して初めてそれを唄う人も少なくなく、さらに全員で唄った郡上の俚謡では、「うたう」という本来の共同体験も味わえたに違いない。また添田唖蝉坊添田知道という人物についての説明を聴き、彼らが残した演歌の数々を自らうたうことで、「演歌」というもののこれまでのイメージを払拭されたことと思う。三日間のワークショップでは昼、夜の食事を、桃山がいた頃から手伝ってくれていた菅野、仙谷両女子が完璧なまでに作ってくれたため、参加者はこの料理にも満足してくれたし、夜の郡上踊り、吉田川での沐浴(?)にも感動していた。なお前日まで続いていた雨もワークショップ期間中は止まり、まさに「炎夏」の「演歌」塾となったのである。コンサートはワークショップ終日の午後から開催。「うた塾」の前日から立光学舎に宿泊し、ワークショップ中は誰に云われたのか、ずっと正座を続け、何度もしびれをきらしていた岡大介君と、ネーネーズ知名定男さんと家にも見え、かつてスパイラルアームという私の打楽器集団で演奏もしてくれたベース奏者の山脇正治氏が参加し、蝉時雨を背景に私が郡上のうたや演歌を次々に披露。岡君の東京節や復興節ではミニドラムセットで伴奏、一気に会場はヒートアップした。午後三時過ぎからのコンサートはさすがに暑かった。会場にはクーラーも扇風機もなかったが、ときおり外から入り込んでくる微風が心地よく、沖縄かどこか南の島でのコンサートのような錯覚すら生じた。お盆を前にしたこの「演歌」のコンサート、観客と一緒に桃山や知道師、唖蝉坊師の霊も暖かく未熟な私の演歌に耳を傾けてくれていたことと一人願っている。