開演間近!!土取利行meetsサルドノWクスモ【NIRVANA泥洹・ないおん】

 今年もまたアジアの舞踊家との貴重なコラボレーションが実現する。数年前に「光」を共同製作した韓国舞踊家キム・メジャさんに次いで、インドネシアのカリスマ的舞踊家サルドノWクスモとの「NIRVANA泥洹・ないおん」が2013年9月7日東京文化会館と9月13日京都芸術劇場・春秋座で開催される。

 サルドノとの出会いは私がピーター・ブルック劇団の音楽監督として活動していた1980年代に遡るが、この出会いについては後述するとして、先ずは多岐にわたる彼の活動歴を簡単に紹介しておこう。

<サルドノW・クスモ>
 Sardono Waluyo Kusumo(サルドノWクスモ)は1945年3月6日、インドネシアの古都ソロで生まれている。8歳の時、宮廷に使えていた父の友人からシラットsilatという武術を学び、その3年後彼から舞踊を習うようにいわれる。サルドノが師事したのは故ラデン・ンガベヒ・アトモケソウォRaden Ngabehi Atmokesowo。彼はそこでアルサンalusanという、マハーバーラタラーマーヤナ叙事詩に由来する役柄の洗練された舞踊スタイル以外の踊りを禁じられ、感情を制御し、流れるような型のアルサンの踊り手になった。
 しかし、1961年、ラーマーヤナ・プランバナンが初上演された時、大事が起こった。この時、アルサンを踊れるのはサルドノしかいなかったため、ラーマ王子の役は当然彼にまかされると思っていたが、彼の期待は大きく裏切られ、その役は他者に振り当てられた。それどころか、サルドノに与えられたのはアルサンとは正反対の荒々しく粗野な踊り、ハヌマンの役であった。さらにこの猿のハヌマンの踊りを40×18メートルという大舞台で大群にして大規模な舞踊に仕立てる結果となった。サルドノは、考えてもみなかった舞踊の枠に立ち向かい、サルドノ独自の舞踊をこのときに開花させた。そしてこの時、サルドノはバレーのポーズやエドガーライス・バロウズの漫画で見たターザンの動作を真似ることから、新たなハヌマン舞踊を創出したのである。250名のダンサーと二組のガムランオーケストラという破格をやり抜いたサルドノ・クスモの旅がここから始まり、その創造のエネルギーは今日まで尽きることがなかった。 
 サルドノはこうして1968年、23歳の若さでIKJ(ジャカルタ芸術大学)の最年少メンバーとなり、1970年には独自のサルドノ・ダンスシアターを設立。'74年にバリ島のタガス村を舞台に『ディラの魔女』を上演。(これは92年に映画としても完成した)
1979年『メタエコロジー』を機に以後瀬力的に83年『プラスティック・ジャングル』、87年『嘆きの森』等、環境問題をテーマにした作品を発表。88年にはヒンドゥー教と仏教で説かれている宇宙の構成要素である『マハ・ブータ』、93年にはオランダ植民地支配とジャワの精神世界を対比させた『ゴングの響きの彼方より』を発表。近年にはオペラ『ディポネゴロ』や2010年の『雨の色彩の森』と題した、自らが描くペインテニングと舞踊、マルチメディアやインスタレーションを導入した画期的な作品を発表するなど、活動はダンサーにとどまらず、振付家、演出家、美術家、作家として国内のみならず海外にも活動を広げてゆき、世界のサルドノとなる一方、自国のジャカルタ芸術大学で後裔の指導にも余念がなく多くの若手ダンサーを輩出してきてもいる。

<筆者とタパ・スダナ:ブッフ・ドュ・ノール劇場で>
 このように伝統を礎に現代あるべき舞踊の形を追求して来たサルドノであるが、私が彼の活動を知ったのは、78年にピーター・ブルック劇団に参加してきたバリ島出身の役者タパ・スダナを通してであった。彼はサルドノと同じ1945年生まれで、1968年にイクラ・ネガラ、プトゥ・ウィジャヤ、W.Sレンドラ、サルドノ・クスモ達とインドネシアで演劇活動を始め、とりわけインドネシアにおいては画期的だったレンドラの演出のシェイクスピア作品「ハムレット」「オイディプス」「マクベス」に出演し、1973〜74年にはサルドノが振付けをした新版ケチャの創作と、先に紹介した74年同タガス村で行われた仮面劇「ディラの魔女」にも出演。そしてこの「ディラの魔女」をもってヨーロッパ公演をした後、スイスでバリの仮面舞踊劇団を結成し、そのままヨーロッパで活躍するようになったのである。
 タパがブルック劇団に入った78年、私たちはアヴィニオン・フェスティバルで『鳥たちの会議』を上演し、この作品にブルックがバリやジャワの仮面を用いたためタパが起用されたのであるが、実はこのアヴィニオン・フェスティバルでは『マハーバーラタ』を上演する予定だった。ところが、この作品の一部分だけをと考えていた当初のアイデアがブルック、ジャン=クロード・カリエールサンスクリット学者のフィリップ・ラヴァスティンと読書会を持つうちに、全編を演劇化したいという方向に変わり、急遽『鳥たちの会議』の上演となったのである。

<ブルックとマハーバーラタの俳優、音楽家達と>
 76年からブルック劇団の音楽家として活動を始めた私は、この『鳥たちの会議』の後、『マハーバーラタ』というつかみ所も無い巨大な物語を全編上演するという話をきかされ、音楽監督としての任命をうけたのである。ブルック達の脚本やアイデアがいつ頃終熄するのかも定まらないまま、私は一人『マハーバーラタ』が今も息づくアジア諸国に芸能・音楽を求めて旅をすることになった。その一つにインドネシアのバリ島があった。世界で最もイスラム人口の多い国とされるインドネシアで、この島だけはバリ・ヒンドゥーという土着宗教とヒンドゥー教が合体した独自の宗教を形成し、村の共同体システムも手伝ってガムラン音楽や舞踊など、伝統芸能が生活と密接に繋がりをもって生きていると同時に、それらの悉くが『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などのヒンドゥー神話を背景にしているのだからどうしても行かざるをえない国である。
 この『マハーバーラタ』音楽調査のためにバリ島を選んだもう一つの理由は、ちょうどこの時タパ・スダナがブルック劇団に入団し、親しくなっていたからである。この頃の私の音楽歴はアメリカやヨーロッパのフリージャズや即興音楽に徹してきたため、アフリカには出向いていたものの、アジア諸国の音楽とは無縁で、もちろんインドネシア、バリ島の音楽も未知だったため、すべては運にまかせての調査旅行となる予定だった。そこでタパが教えてくれたのは、とにかく首都デンパサールに着いたら自分の実家を訪ねてネトラという人物に会わせてもらえということだった。タパの実家は印刷業を営んでおり、そこで父親と弟に会い、ネトラを呼び寄せてもらった。ネトラはタッパと60年代から70年代にかけて演劇活動を共に続けていた仲間で、サルドノとも親しい人物。サルドノ、レンドラ、プトゥたちがジャカルタスラカルタで活動を続けていたのに対し、彼は家庭の事情も手伝ってバリに残っていたのである。ネトラはその夜、アートセンターでのケチャに連れて行ってくれ、ガムランを学びたいという私の願いを聞くと、かつてサルドノやタッパと一緒に活動していたタガス村のガムラングループを推薦し、その村長のワヤンスドラに会えば、我々全員を知っているので大丈夫だろうと紹介状を書き添えて、翌朝私を送ってくれた。

<バリ島タガス村でのガムラン練習>
その翌日から私のガムラン修行が始まるのだが、このタガス村こそサルドノが『ディラの魔女』を上演し、映画製作をした伝統ある村だったのだ。そして70年代にタパが共に活動していたレンドラは押しもおされぬインドネシアのカリスマ的大詩人、演出家として活躍し欧米にきたときは何度か出会い、1990年ベンケル劇団を引き連れ初来日した際には日本で再会し、その後我が立光学舎にもプライベートで来舎していた。我家にはタパが出演したレンドラ演出の「オイディプス」に使った仮面があるが、これは手紙と共にレンドラから送られてきたものである。2009年、73歳でレンドラは逝去した、反骨と不屈の現代詩人、パーフォーマーだった。

<立光学舎に送られて来たレンドラの「オイディプス」の仮面>
プトゥ・ウィジャヤもまたN.YやTOKYOの公演で出会い、立光学舎を訪ねてきた。今も映画に芝居、脚本家、演出家と彼も多彩な活動を続けている。
 こうしてみるとタパと活動していた、70年代を疾走したインドネシアのアーティストたちの存在がいかに大きかったかが判るし、サルドノの活動が孤立無援なものでなく、こうした社会と時代背景から生まれて来た共通の意識やエネルギーに支えられてきたのがよくわかる。
 バリ島は何もかもが衝撃的だった。ここではこのことには触れるスペースがないので割愛するが、その後私はジャワ島の古都スラカルタを二度訪れている。きっかけは、やりタパの友人で当時、国立スラカルタ芸術学院(STSI)の研修員としてソルボンヌ大学に留学していたラハユ・スパンガを紹介されたことにある。『マハーバーラタ』の音楽製作の段階でリハーサルやオーディションに来てもらったし、桃山晴衣がパリに来た際に一緒に演奏をしたりして親交を深めているうち、スラカルタに帰国してからは芸術学院の学長になっていて、1991年に桃山と一緒に芸術監督として関わった大垣市のイベント「代々の雅」でスパンガ率いるスラカルタ宮廷舞踊団を国分寺遺跡で開催するため、その準備で古都スラカルタを訪れたのである。

<土取・桃山監修で上演されたジャワ宮廷舞踊:ロンゴウェ>
また1998年にはジャカルタで開かれたARTサミットで私のパーカッショングループ「スパイラルアーム」がSTSIのスパンガ、アル・スワルディ等と共演することになったため、その練習をかねて再びスラカルタを訪れたのだが、最初の訪問の時、スパンガはボルブドゥール遺跡などを案内してくれ、この時サルドノもスラカルタに滞在していたため、古代に関心があるという私の話を聞き、ジャワ原人の遺跡に連れて行ってくれ、「ピテカントロプス」という作品を創ったという彼と意気投合し、いつか一緒に公演ができればと思うようになったのであった。

<1991年スラカルタでサルドノW・クスモと>
 それにしてもタパとの縁からインドネシア・アートの第一線で活躍する同時代人とこれほどまでに親しくつきあえたことは、何とも幸運であったというほかない。
 さて、このような巡りめぐってのインドネシア・アーティストの出会いを経て、ようやくサルドノW・クスモとのコラボレーションが実現することになった。東京文化会館という私とはほとんど縁のなかったクラシック音楽の殿堂の自主企画公演というのも意外であるが、音楽ホールでダンサーとのコラボというのもまた珍しいことだろう。
 今はジャカルタに拠点を置き活動を続けているサルドノは近年、秘めていた自らの絵画の才を舞踊に結びつけ、ロサンゼルスCalArt Theaterでの照明、音響、マルチメディアとの実験的コラボ作品『雨の色彩の森』で新境地を切り拓き、この自由絵画ともいうべきいくつもの絵画作品を展示すると同時に、その作品と幾人ものダンサーの即興舞踊の試みも行っている。

<サルドノ:雨の色彩の森>
絵画の多くは数メートルもある布や紙に、おそらくは容器に入れたアクリル顔料を舞踊と同じ内的エネルギーによって各所に流し、その自然な顔料の流れによって絵画を形成してゆくもの。『雨の色彩の森』では白い布を敷いた斜の舞台で踊りながら、掌を黒い輪郭線でなぞり、いくつかの身体の局部の輪郭線を残した上に、いくつもの色彩の顔料を流してゆき、その長い画布を天井まで吊るし上げたとき、まだ乾かぬ顔料が雨のようにゆっくりといくつもの色彩模様を自動的に残してゆくのである。天井を見上げるほどのこの巨大な作品を見ていて、私はふと数年前に演奏したフランスの壁画洞窟を思い出した。この色彩の軌跡は洞窟内の鍾乳石の群れを彷彿とさせ、そして彼が描き残した掌の輪郭があの旧石器時代の人が岩に描き残したネガティブハンドに映って見えたからだ。実際、サルドノはカリマンタンニューギニアの先住民の地を訪れ、古代の儀式を司る踊りや音楽を体験し、かつて自分が新たに振付けしたケチャの掌の動きをネガティブハンドと重ね合わせて考えるようになったともきく。現代アートコンテンポラリーアート、またはダンスというものが自分の足元に目を向けず、表層的な西欧の近代アート思想や表現の借り物であることがあまりにも多い日本の若いアーティストにこそ彼のアートの真髄を今回感じ取ってほしいと願う。
 本公演タイトル『土取利行meetsサルドノW・クスモ / NIRVANA 泥洹(ないおん)』の「NIRVANA 泥洹(ないおん)」は、かつて桃山晴衣の父、鹿島大治氏が1961年に後見となり桃山流を立ち上げた際に作曲した舞踊曲で、当時は箏や琴、笙などで演奏され舞踊が伴っていた。のちにこの曲を桃山は三味線曲として他の楽器や歌を加えながら演奏を続けており、今回は桃山晴衣亡き後、彼女の遺した三味線を私が手にこの曲を弾き、そこから様々な楽器を駆使しながら、サルドノの舞踊に呼応していくよう準備をすすめている。サルドノは自らの絵画を新しい形で展開する予定で日本公演では三名の女性ダンサーが加わり、仮面も用いる。サルドノの絵画と私の三味線。共にかつてはお互い想像もしなかった世界にすすむようになった二人の出会いが、東京、京都の舞台でどう結実するか、いまから楽しみだ。
 以下は公演案内。
■『土取利行meetsサルドノW・クスモ / NIRVANA 泥洹(ないおん)』
東京文化会館 小ホール
2013年9月7日(土)開演18:00時
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京都芸術劇場 春秋座
2012年9月13日(金)開演19:00時
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