同時代の創造精神を持つサルドノW・クスモとの「泥洹ないおん/nirvana」公演
9月13日の京都芸術劇場・春秋座での公演を終え、サルドノ一行がインドネシアへの帰路に立ち、無事帰国をしたとの連絡を受けた後、日本は台風18号のニュースで騒がしくなっていた。京都は数日前に彼らを案内して回った鴨川、さらには桂川が豪雨で大氾濫。公演日が一日でも違っていたら大変なことになっていたと、胸を撫で下ろす。
9月3日、サルドノW・クスモと女性三名からなるダンスシアターが来日した。サルドノに会うのは15年ぶり、1998年に私がジャカルタに招聘された「アートサミット」での出会い以来である。あの時はまだ元気だったレンドラとズライダ夫人、ベンケル劇団の面々が来場してくれ、翌日は彼らの家で御馳走にもなったが、そのインドネシアのカリスマ的詩人、作家・演出家のレンドラも既に逝かれてしまった。またサルドノから、私たちの友人である作家で演出家のプトゥ・ウィジャヤが重篤であること、一緒に何度も演奏をしてきた元スラカルタ芸術学院(STSI)の学長だったスパンガも入院中だと聞き、時の流れを痛感した。サルドノは68歳になるが、相変わらず気さくで元気だった。
<京都公演のダイジェストVTR映像>
今回の公演の発端は、私に東京文化会館から舞台創造事業の作品をという依頼があったことに始まる。当ホールは西洋音楽の殿堂として名高く、私のような既成の音楽枠にはまらない音楽家が選ばれたことだけでも画期的だが、誰か他のジャンルの方とのコラボレーションをという依頼もあり、以前から機会があればコラボレーションがしたかったインドネシアのカリスマ・ダンサー、サルドノに連絡をとった。彼はジャカルタ芸術大学の指導者でもあり、ちょうど9月は大学のクラス開始前でスケジュール的にも可能だということで、二つ返事でOKのサインが来た。公演までの進行は、私がまず基礎になる音楽を作曲・演奏してサルドノに渡し、それから彼は三人の女性ダンサーを選び、リハにはいっていったが、ここ数年、長い布や紙に絵の具を振りかけて描いた作品を舞台美術としても使うことを知らせてきた。熱かった今年の夏は盆踊りも控え、その舞台と音楽の構想を練りながら、彼らの9月の来日を待った。
<左からサルドノ、ヘルダ、土取、リカ、ハニーの面々>
彼が連れて来た三人の女性ダンサーは各人各様の経歴と個性をもったサルドノの教え子でもあった。ハニー・ヘルリナは芸術学院でダンス指導も行っているベテランで、伝統舞踊、特に仮面舞踊の達者である。宮廷仮面舞踊はもとより、バリやチルボンなどの多くの村でもガムランで踊る仮面舞踊を修得し、サルドノ門下として実験的な踊りも身につけた才ある舞踊家である。(ちなみに今回はジャワの仮面に加え私が持参した備中神楽の翁面を用いた即興舞踊も行った)
<ハニーの仮面舞踊>
ヘルダ・ヨシアナは26歳の若手ダンサー。芸術大学でサルドノから舞踊を習い、2007年には世界モダンダンスコンテストで2位の成績を収めたこれまた才あるダンサー。サルドノの作品にも多く出演している他、同期のダンサーで今度愛知トリエンナーレにも出演するジェコ・シオンポの前作品にも参加している。今回の作品では先のハニーが私の三味線でジャワの伝統舞踊を基に踊ったのに対し、彼女は爆音のリズム音楽で激しい身体運動の踊りに徹した。もちろんサルドノの演出である。もう一人のリカ・オクタベリア・ダルマワンもヘルダ同様26歳の若手ダンサー。とはいえ、前者二人とは異なり、彼女はジャカルタ芸術大学で振付け学を学び、照明デザインやアートプロジェクトの活動に従事しており、舞踊歴は前者に比べて短く、今回もサルドノのアシスタントプロデューサー、マネージメントを兼ねてダンサーとして参加した。特異とする所はヒポップ・ダンスであるが、サルドノは今回の公演では一切彼女の得意技を披露させなかった。逆に全く踊らせず、一枚の絵の描かれた紙の絨毯をゆっくり舞台に広げて舞い、去るだけの単純な振付けを与えた。この三者三様の踊りの変化が観るものへのイマジネーションを幾様にも与えたことは間違いない。
サルドノはこのように三人の女性の舞踊を中心に舞台を進め、最後に自らが踊るという構成を立てていた。打ち合わせからゲネの間も、サルドノも私も何度も構成に変化を加えていき、結局当日の舞台でもスポンテニアスな舞踊があらゆる場面で展開される為、一番大変だったのは照明家だったかもしれない。サルドノがサルドノなら私も即興演奏は特異とする所で、お互いにその変化をこそ楽しんだ。
<東京文化会館の舞台>
東京文化会館はコンサートホールでもあり、舞台が狭く少々ダイナミックなパーフォーマンスには不向きだったが、音楽家と舞踊家の距離が近かった分、逆に密度の濃いコレスポンドができた。
京都芸術劇場に移ってから、サルドノは舞台の花道、そして本舞台の広さを観て、ここでは東京で御法度であった舞台で直接絵を描く方向に急遽ディレクションを変えた。またここでは私のドラムソロも加えると同時にハニーとの三味線場面では桃山晴衣の「泥洹」はもちろん、急に「梁塵秘抄」の「君が愛せし・・」という唄が舞台で出、その後インドネシアのスンダメロディーを口ずさむことになっていった。
サルドノが舞台で描いた絵は天井から長く垂れ下がった一枚と、大きなキャンバスに描いた二枚。そのキャンバスの二枚と共にあった踊りは幼い頃から習った武術シラットや宮廷舞踊の振りを深い呼吸と緩急のリズムで変化させたサルドノならではの舞踊だった。
<キャンバスを手に踊るサルドノ>
時に怒声を発し、瞑目して祈るサルドノ。東京公演では彼が1968年初めてプラナバンの舞台で上演された「ラーマーヤナ」でハヌマンを踊ったときの荒々しい勇姿そのものが、今日甦っていたとの感動を観客から聴いた。ハヌマン神は不滅だったのだ。
<舞台美術・装置となったサルドノの絵画>
公演後は両劇場で私とサルドノのトークがもたれ、ほとんどの観客が帰らず耳を傾けてくれたのが印象的だった。私たちは古代から連綿と続く人間の芸術について、サルドノはジャワ原人、私は縄文について、また彼の絵画の開始時期がスマトラのアチェの大津波と関係していたことから福島の問題まで話題は及び、ヒンドゥーのハヌマンから古事記の猿田彦の話と・・・話題は尽きず、一緒に行動している間にも多くの話をした。
かつて、私もサルドノも70年代をヨーロッパやアメリカの学生運動を機に展開していった前衛芸術運動の中にあった素晴らしいアーティストとの出会いを通して、自分の活動を展開してきた。日本とインドネシアという環太平洋の圏内にあり多くの共通文化を持つ二人が、同時代を世界の潮流の中で旅し、長い時を経て再び創造の時を同じくすることができた今回のコラボレーションは、サルドノの健在とアジア文化の深淵を再確認させてくれた忘れがたいものとなった。
<土取の演奏楽器>
「泥洹・ないおん」は桃山晴衣が演奏を続けて来た父、鹿島大治氏の作曲した三味線曲で当初は唄と舞踊が組まれていた。この舞踊曲が今回のようにインドネシアの舞踊と共に上演されるとは、大治氏も夢にも思われなかっただろう。桃山は私の三味線を聴き乍らどこかで微苦笑していたにちがいない。
最後に、実現にむけて動いていただいた東京文化会館、京都芸術劇場の方々、制作スタッフの方々、個々の名前をここに記せませんが、本当にありがとうございました。