桃山晴衣の音の足跡(36 )『梁塵秘抄』の世界 其の五

 NHK大河ドラマ平清盛」の影響か、桃山晴衣の「梁塵秘抄」とりわけ「遊びをせんとや生まれけん」が大いに注目されている。youtubeではこの曲を以前から流していたが、カウントが一年で2000にも満たなかったものが、この三週間程で9000を超えている。NHKの影響の大きさを知らされる一幕だが、私はこのドラマを拝見していない。桃山の「遊びをせんとや・・」に耳を傾けてくれる人がどんな人たちかは知るすべもないが、願わくば今は亡き彼女のCD「梁塵秘抄の世界」を入手し、ライフワークとした「梁塵秘抄」の他の曲にも耳を傾けて欲しいと願う。
 ところで桃山晴衣が作曲し、うたった「梁塵秘抄」は以下の40数曲。自ら作曲した作品を譜面には残していなかったが、幸いその大半はレコードやプライベートな録音に残されているので、そこから彼女の「梁塵秘抄」への取り組みを窺い知ることができる。
まずこの40数曲のレパートリーを書簡に添って整理してみると、
巻第一<長歌>からは十一番の「そよや小柳によな」、十三番の「春の初めの歌枕」。
巻第二の<法文歌>からは二十六番の「仏は常にいませども」、二百三十八番の「暁しずかに寝覚めして」、二百三十二番「仏も昔は人なりき」三十二番の「像法転じては」、三十四番の「瑠璃の浄土は潔し」二百八番の「龍女は仏に成りにけり」。

巻第二の<四句神歌>から二百五十番の「南宮の宮には泉出でて」、二百五十八番の「熊野へ参らんと思えども」、二百六十二番の「南宮の本山は」、三百二十八番の「筑紫の門司の関」、三百三十六番の「百日百夜はひとり寝と」、三百三十九番「われを頼めて来ぬ男」、三百四十三番の「君が愛せし綾蘭笠」、三百五十三番の「御馬屋の隅なる飼猿は」、三百五十九番の「遊びをせんとや生まれけん」、三百六十四番の「わが子は十余りになりぬらん」、三百六十五番の「わが子は二十になりぬらん」、三百六十八番の「この頃京に流行るもの」、三百六十九番の「この頃京に流行るもの」、三百七十六番の「清太が造りし刈鎌を」、三百七十番の「楠葉の御牧の土器造り」、三百八十五番の「西山通りに来る樵夫」、三百八十六番「からすは見る世に色黒し」、三百九十二番の「茨小木の下にこそ」、三百九十五番の「海老漉舎人は」、四百四番の「滝は多かれど」、四百八番の「舞え舞えかたつむり」、四百十番の「頭に遊ぶは頭じらみ」、四百三十二番の「春の初めの歌枕」、四百三十八番の「居よ居よ蜻蛉よ」、五百五十六番「東には女はなきか男巫女」、五百五十九番「神ならばゆららさらと降りたまえ」。
巻第二<二句神歌>から四百四十七番の「ちはやぶる神 神に座しますものならば」、四百五十五番の「吹く風に消息をだに」、四百五十六番「恋しくば疾う疾うおわせ」、「四百五十九番の「わが恋はおととい見えず」、四百六十番の「恋い恋いてたまさかに逢ひて」、四百八十一番「いざ寝なん夜も明け方に」、四百八十四番の「結ぶには」、四百八十五番の「恋しとよ君恋しとよ」、五百五十九番も「神ならばゆららさららと降りたまえ」。
*「よるひるあけこしたまくらは」 (1195年に新たに発見された後白河筆の断簡にあった歌詞より作曲)この断簡の詳細記事はhttp://www.ic.daito.ac.jp/~hama/news/ryojinhisyo990520.pdf#search='よるひるあけこしたまくらは'
 この選曲をみれば彼女が「梁塵秘抄」のどんな歌詞を好んで作曲したかがよくわかる。とりわけ「梁塵秘抄」の中でも最も多い法文歌に彼女はほとんど手をつけていない。長い間うたっていたのは「仏は常にいませども」と「暁しずかに寝覚めして」「仏も昔は人なりき」を合わせて一曲とし、雅楽の越天楽を伴奏にうたった名曲だけで、ずっと後になって「像法転じては」、「瑠璃の浄土は潔し」「龍女は仏に成りにけり」を加えているのである。この法文歌は仏教歌といってもよく、仏の教えをわかりやすく歌にして民衆に広げようとしたものであり、民衆が直接自らの心や心情を歌にしたものではない。桃山が魅かれた歌詞は中世の動乱期を生き抜いてきた衆の声が聴こえる<四句神歌>や<二句神歌>の歌の数々である。なぜなら、そこには海人びと、漁師、木こり、船乗り、武士、遊女、歩き巫女、芸能者、博徒、山伏、修験と、農民ではなく移動民ないし遊民の多くが登場し、「あるがままの姿の方に光が照射されてゆき、それがたくましく躍動を始めた衆の力の時代」が歌われているからである。そしてもう一方で<二句神歌>に多く歌われている愛欲の歌の数々。桃山は貴賎を問わず歌われたと云われる「梁塵秘抄」が、「愛欲そのものをズバリとダイレクトに表現した内容であるのに、野卑に陥らず、かえって活き活きとした<普遍のうた>になっている」ことに感銘を覚え、「歴史的な転換期である乱世の厳しさを生きぬいた人々は、たをやかな自然体に<人格>とか、<格>といったものまで備えていたのだろうか。私は世界の辺境僻地で少数民族にであった時の、中世と同じような荒野の貧しさの中で、老いも若きも、礼美しく品が良いのに驚かされた経験を重ね合わせてみる」と、こうした衆のうたに<格>を観、聴き取っているのである。さらに蜻蛉やキリギリスやシラミまでも歌い上げる大らかさ、愉快さが桃山を魅了し、作曲に走らせ、うたわせたのである。以前に斎藤慎爾氏が桃山晴衣梁塵秘抄を「この時代、外に目を向ければ中世の世俗歌謡を集めた『カルミナ・ブラーナ』がある。オルフの創作盤とクレマンシックの復元再構成盤とがあり、曲の感じでは晴衣は後者に近い。「日本に一人のオルフも生まれなかったのか、私が作曲者だったら・梁塵・に旋律と拍子を与えたい」と塚本邦夫氏の言。私は早坂文雄清瀬保二、伊福部昭氏を日本のオルフと思ってきた。桃山晴衣をその系譜に加えよう」と賛してくれたが、一言加えさせていただければ、ここに居並ぶ三人の作曲家は明治・大正時代の西洋音楽を基盤に作曲家として名を馳せた人たちであるが、桃山は彼らと同時代とも云える父上の五線譜で邦楽を学ぶということに幼い頃から抵抗感を持ち、そうした環境にありながらも、「記録」ではなく「記憶」で唄や三味線を習うことにこだわり、彼女独自のというか、自然体の作曲を目指したのである。それゆえそこには「間」や「息」などの日本音楽にとって最も大切な音楽要素が存分に発揮されており、「遊びをせんとや・・・」のような、作曲でない作曲が誕生しているのである。あえていえば、私は桃山晴衣を乙前、延寿、夜叉姫と続いた青墓の遊女(あそび)の系譜に加えたいところである。