桃山晴衣の音の足跡(33)「梁塵秘抄」の世界/其の二

「裏の雑木林を風が吹きわたる葉ずれの音を、驟雨と聴き紛うことがある。逆に大粒の雨の降り出しを風と聴き違えることもある。一陣の天意にふりはらわれて地面に滲みる幾百万の雨滴。わくら葉のひそやかな離脱・・・・」
 先に桃山晴衣が75年から80年にかけて尋常とは思えない程の創造活動に没頭し、とりわけ長編現代語のかたり「婉という女」の作曲、演奏では精神力・体力ともにぎりぎりの状態で取り組んだために、膵臓病という病魔に突然襲われ生死を彷徨うことになったことを述べた。幼少からの長い邦楽修行期間を経て、やっと自分の音楽世界を開かんとし始めていた彼女は、このままでは自分がこれまでやってきたことが水の泡になってしまうと、東京での生活を離れ、岐阜の鵜沼に移り住み、体力の回復をはかることもかねて、自ら田畑を耕しながら創作活動を続けることを決意する。冒頭に紹介した彼女の記した「わくら葉のひそやかな離脱・・・」、この意味ありげな文。わくら葉とは、若葉を意味すると同時に、蝕まれた葉、枯れてしまった葉も意味する。自分がまだこれから世間に向けた歌作りを始めだした若葉のような存在であると同時に、躰が病に冒され何もかもが離脱しそうな状態で、蝕まれた枯葉のようでもあるという心境を吐露したものではないだろうか。「ぬばたまの、ねっとりと練り込んでこしらえあげたような闇の黒は、ちっぽけな人間存在など溶かしてしまうようだった」という移り住んだ住居の周辺。まわりに街灯一つない闇の広がる地に身を置いた桃山は、医者の誤診で病を進行させられたこともあり、以後絶対に病院にはゆかず、自分で漢方や鍼灸を勉強し、最後は知人の紹介で野口整体を始め、同時に当時センセーショナルを巻き起こした福岡正信氏の自然農法を自らの畑で実践しながら歌作りを続けていく。

鵜沼に移り住み畑仕事に専念する桃山:写真・大島洋

鵜沼の自宅から「梁塵秘抄」コンサートへ:写真・大島洋
 彼女はこうして全くこれまでとは異なった環境で生活し、身体を徐々に回復させながら「梁塵秘抄」の作曲に取り組むことになるのだが、このことが「人間の生活は土に支えられています。生活のなかで人と人との交わりが不可欠なように、土との交わりが必要なのです。土と一体になったとき、最高の音楽が生まれます」と云う信念を桃山に抱かせることになり、「生活とおよそ離れたような、よそよそしい歌はうたいたくない」という理想の歌の追求、創造へと彼女を駆り立てたのである。しかし「梁塵秘抄」は自分の音楽の分水嶺でもあると云う桃山ではあったが、はじめてみると今まで手がけてきた歌とは異なり、盲人が象の足や尾の先をさわっているような自分にイライラし、パニックに陥ったという。解説書に目を通し、周辺の音をいくつも資料として集めと、半年程はこうした準備期間にさき、それが終わるとそれらを忘れ、自然の中で暮らしながら湧き出てくるものを待っていればよかったという。この時期は外で畑仕事をするのと同じような心持ちになり、あふれるものが次々と押し寄せてきて、寝る間も惜しい日が続く。そしてまた次の難関にさしかかり、自身の内なる声と出て来る実際にズレが生じ、苦しむ日もあったというのだ。
 こうして紆余曲折を経て桃山晴衣が最初に作ったうたが多くの人に愛された「そよや」である。

「そよや 小柳によな 下がり藤の花やな 咲き匂えけれ えりな 睦れ戯れ や
うち靡きよな 青柳のや や いとぞめでたきや なにな そよや」
 桃山はこのうたを「細胞のすみずみまで沸き立つような春の芽吹き。若やかな男女を、風にゆれる柳と、戯れからむ藤の花房に見立てた、これを「めでたけれ」で終わらなくてどうする、というほど明るい一首だ」といっている。永六輔氏が「桃山晴衣の古典の発声を聞くと、「小唄」に空があるのに感動する」といったように、彼女の発声、歌声は他に例を見ぬほど洗練、浄化されたものである。それはあらゆる邦楽の唄い方を実際に踏襲し、一時間近くに及ぶ語り物の宮薗節の三味線はいうに及ばず、洗練の極みとも云えるこの古曲の唄い方を徹底して自分のものにしてきたからである。しかし彼女は、長い遍歴をかさねてきたにもかかわらず、野外で唄えるものとして、古典や伝統曲で自分の持ち歌になったのは「吉野山」一曲のみだったという。そして「梁塵秘抄」を読んですぐ突き当たったのが十一番の「そよや」、このうたこそ彼女がずっと求めてきた<戸外のうた>、まさに<野のうた>だったという。彼女は京の鴨川で、八坂神社境内で、大学のキャンバスで、戸外のありとあらゆるところでこのうたを唄い続けた。梁塵秘抄、うたの旅がこうして始まった。