両国シアターX桃山晴衣を偲ぶ会


八十年代初頭、桃山晴衣は一人パリを訪れていた。
マンダパという小さな劇場で初めて私はかの女の唄と三絃の音に触れた。
その音色は天竺の弦楽器、インドの名匠が弾くサロードのそれと重なって聴こえた。
その音にインドと同じ異郷(響)を感じた。
三絃もさることながら、かの女はまた、いままで聴いたことのない歌い方で日本の唄を次々とうたった。
透明な、清々しい声だった。
このとき、私は初めて美しいと思えるニホンの伝統の音と唄を聴いた。

以来、互いをパートナーとし、三十年ちかくにわたって私たちは世界を巡り、日本を廻り、古代を遡って理想の音世界を探しつづけた。
そのときどきに二人で観た多くの景色が脳裏をよぎり、聴いた多くの音が心の奥底から湧き出てくる。
かの女を失った今、三十年前の桃山晴衣の音連れの不思議をあらためて想う。

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二〇〇八年一二月五日、桃山晴衣が他界して一ヶ月余が過ぎた。私たちの拠点であった郡上八幡の立光学舎での地域の人たちとの偲ぶ会の後、二〇〇九年一月二四日には全国各地から桃山と親交のあった大勢の方が、両国のシアターX(カイ)に参集し、かの女の旅立ちを祝ってくれた。
 シアターXは、数年間にわたって桃山が演劇や音楽家を志す若者たちを指導してきた劇場で、当日はここで多くを学んだ生徒たちや、仕事を一緒にしてきたスタッフによって会場作りが進められた。インドやインドネシアの布を敷いた献花のための祭壇には桃山の遺影と、渡辺眸さんの睡蓮の写真が飾られた。その左脇には五木寛之夫人の玲子さんから贈られた両手を広げたような高さ二メートルほどの桜の花が生けられた。とても印象的で存在感があった。この桜の下に、桃山の三味線、数々の帯、自ら記した達筆の古曲宮薗節台本、師・宮薗千寿の遺影、そして玲子さんの花の絵が飾られた。献花は桃山のご意見番であった重役会の方々から、ロビーでの軽食は友人たちによって準備された。多くの人の懇意によって準備された会場には発起人の方々をはじめ、演奏家、そして補助席を用意しなければならないほど大勢の参加者が集まり、正面スクリーンには「桃山晴衣を偲ぶ会」のタイトル、背後には宮薗節の技法を駆使して完成させた桃山のオリジナル「今様浄瑠璃・夜叉姫」が流れた。
 司会は桃山と『銅鐸』のレコードを制作していただいた、現在は日本伝統文化振興財団理事長の藤本草さんが引き受けてくれ、発起人の小林達雄さん、四方田犬彦さん、堀沢祖門さん、遠藤利男さん、松岡正剛さん、上田美砂子さん、そして参加者の中からも桃山と近しかった人たちのスピーチが続く。心に残る話ばかりだった。その後、桃山の歌の生徒数人で未発表の梁塵秘抄から「滝は多かれど」がうたわれ、ゲストの石川鷹彦さんのギター、菊池雅志さんの尺八と私の太鼓の演奏が、そして桃山の「瑠璃の浄土」に合わせて私がエスラジを演奏した後、スクリーン上で郡上の景色をバックに、桃山が二年程今回のゲストミュージシャンたちと作っていたグループMOMOで最後にうたっていた歌「生成消滅」が流され、多くの方の心に響いた。
実際の舞台でこのうたを聴いていたときはほとんど気にしていなかったのだが、今回テープを整理しているときに聞き直してみて驚いた。また、かの女の書き残した歌詞を見るにつけ、けっして良い録音ではなかったが、最後のメッセージとして聴いてもらおうと思った。
会場内でのプログラムは6時頃まで続き、その後もロビーで多くの方が桃山を偲んで話し合い、会が終わったのは8時過ぎ、残念ながら参加者一人一人と会ってお話ができなかったことが心残りとなってしまったが、遠いところからこの日のために足を運んでくださった皆様、本当に、本当にありがとうございました。