岩手県宮古市被災地、鳥取春陽の故郷と黒森神楽

  先週、岩手県宮古市に出かけた。以前、大野一雄さんとの「小栗判官・照手姫」の仕事で制作をしてもらった魁文舎が、震災の支援活動の一環として、この地でアーティストと被災地の方々が交流できるイベントを何度か続けて来られ、添田唖蝉坊・知道演歌のうたを被災地の方に唄ってもらえないかという呼びかけがあっての旅立ちとなった。
 盛岡駅で東京から来たカンカラ・シンガーの岡大介君と合流し、車で宮古市へ。まだ山頂に残雪のみえる山を幾つか越えて、まず到着したのは新里の生涯学習センター内に設けられた鳥取春陽展示ホール。

鳥取春陽>
 またまた奇縁といおうか、今回は唖蝉坊演歌をということで引き受けたのだが、魁文舎から鳥取春陽という方はご存知ですかという連絡があり、実は宮古市鳥取春陽の生まれ故郷だったのだ。
 鳥取春陽は岩手県宮古市新里村で、1900年12月16日に生まれている。2歳の時に母と死別、父は戦争で死別、幼時期を叔父に育てられた。小学校では学力優秀、ハーモニカやマンドリンを演奏するハイカラ少年だった。11歳の時に戦争景気で製糸工場を営んでいた鳥取家が没落。いわゆる中学を中退して、上京する。東京で様々な職につき、転々とし、17歳のときに木賃宿の演歌師と出会ったことで添田唖蝉坊を知り、演歌組合に入り、演歌活動を始める。この時、添田知道氏が彼の為に書いた「みどり節」が初の作曲作品となる。

20歳の時に一時帰京するも直ぐに上京し、石田一松らと活動をし、1922年、22歳で書いた「籠の鳥」が爆発的に流行。翌年、大正12年関東大震災で被害にあい、大阪へ移動。26歳の時、大阪のオリエントレコードと契約し、初の専属歌手となる。作曲家としてだけでなく、歌手としても活躍し、新民謡やジャズなども多く吹き込む。29歳で山田貞子と結婚するも、肺結核にたたられ大阪住吉にて32歳の若さで死去。壮士演歌、書生演歌から昭和歌謡への流れの中、自らをうたの変遷と共に没した夭折の音楽家である。
 添田知道氏は大阪で絶頂期を築いていた春陽との思い出を次のように書いている。
 「鳥取春陽は大阪でレコード会社の引っ張り凧になり、専属制の走りをつとめるなどあって、大いに気を吐いていた。さつき生(添田知道氏のこと)が京阪に遊んだとき、途上でばったり会ったことから「思い出した」の戯作でたのしんだりもしたが、まさに鳥取は得意の絶頂にいた。カフェへよく案内されたが、そのもてることには「だあ」となるものがあった。相変わらず酒にひたって、不摂生をきわめた」。

 添田唖蝉坊、知道氏と繋がりを持つ春陽の里、唖蝉坊や知道氏に関しては先日「唖蝉坊・知道展」が開かれた神奈川近代文学館に彼らの遺品が収納保存されてはいるものの、「唖蝉坊・知道」館なるものがあるわけでなくとても残念であるが、ここ宮古市は新里の生涯学習センター内、かつての中学校であろうか、校舎の一教室を用いた春陽展示室が設けられていて、彼の使っていたオルガンや蓄音機、また吹き込んだレコード盤や楽譜、その他の遺品が多く展示されていて興味深い。

<春陽の使っていたオルガンや蓄音機>
またここから車で20分ほどの刈谷村には今も春陽の生家が残っており、宮古について早々、この二カ所をまず訪ねた。そしてたまたまここを訪問する前にYOUTUBEで「鳥取春陽生誕100周年記念」のドキュメントを見ることが出来、そこで春陽のうたを今も唄い続けている婦人会の存在を知ったので、この会の方にお会いしたくて連絡を取って頂き、運よくその会のリーダーを努めておられた方のお宅にも訪問することができた。

鳥取春陽物語>
 ドキュメントの映像はすでに10 年前のもので、春陽のコーラス隊会長を務めておられたこの家の婦人、中野さんも高齢に達していて、コーラス隊は解散せざるをえなくなったという。しばし春陽のうたとも遠ざかっていたのか、お家に伺い、岡君がカンカラ三線で「籠の鳥」をうたうや、落涙し、喜んでくださった。翌日の支援コンサートでは「鳥取春陽」の唄を中心に唄いますのでよろしければおいで下さいと、ご挨拶をして別れ、一路宮古市街地の演奏会場、そしてもう一つの会場、田老(たろう)にあるグリーンピアへ。
 翌日は正午前から田老のグリーンピア内宴会場に仮設住宅に今も暮らしておられる人たちを招いての演奏会、田老は津波の被害が大きく今もこのグリーンピア敷地内に仮設住宅が儲けられ大勢の人が暮らしておられる。お婆さん達は一時間も前から会場ロビーに集まって雑談をしていて、やがて80名ほどの人たちが会場に集まった。鳥取春陽と唖蝉坊・知道演歌を唄うのだが、第一声はなぜか郡上節「川崎」がでてしまった。「雨も降らぬに、袖しぼる・・」郡上一揆の犠牲になった人を偲んでのこのうたが、被災者の人たちと重なってみえたからだ。そのあとは、さすがに宮古である。「籠の鳥」を皆でうたい、春陽の唄を、そして唖蝉坊演歌をと、みんな熱心に耳を傾けてくれた。そして少し早めに切り上げて食事のテーブルに全員移動した後は、岡君が持ち前の明るさで、歌謡曲のリクエストを唄うという特別プログラム。こうして一緒に唄ったり食べたりすることは、仮設住宅内でもあまりというか、ほとんどないのであろうか、皆嬉しそうだったが、後のことを思うと淋しい気もしてならない。

グリーンピア仮設住宅の人たちに唄う岡大介と土取利行>
 午後からは宮古市街地の商店街にある集会場リアス亭での会。ここは仮設住宅の人たちだけではなく、支援にかかわる人たちも含めた聴衆が集まってくれた。そしてその中に昨日お会いした鳥取春陽コーラス隊の会長中野さんが、病を押して、会の婦人達を誘って見えてくれた。始めはもちろん春陽の「籠の鳥」、婦人コーラス隊に唄ってもらった。その後しっとりと私が「すたれもの」「みどり節」を、岡君が「思い出した」他明るい春陽節を唄い、唖蝉坊・知道節を。こうして唄ってみると春陽の唄がまだここには生きているということを思い知らされる。若者が少ないが、彼らがいまここに集まっている人たちの高齢に達した時、こうして共に唄えるうたがあるのかどうか、大いに考えさせられる会であった。

<病身を押して駆けつけてくれた鳥取春陽コーラス隊会長の中野さん>
 この夜はたまたまなのか、黒森神楽の人たちが近くで宴席を持っており、そこに招待されることにもなった。そもそも宮古との縁は、魁文舎が黒森神楽のニューヨーク公演を制作担当したことにあるときいたが、震災後、早池峰神楽や遠野の神楽の影に隠れていたこの黒森神楽の存在が被災地だったということもありクローズアップされてきたのである。
 黒森神楽の特徴は「巡行」と称し、冬から春にかけて陸中沿岸集落を歩き、各家の庭先で、黒森神社の神霊を移した権現様と呼ばれる獅子頭の舞を舞って悪魔払い、火伏せの祈祷をおこない、夜は宿先の座敷に幕を張り、五穀豊穣、大漁成就、天下太平などを祈る舞で人々を祝福する。このような広範囲の巡行を行う神楽は全国的にも珍しく、平成18年に国の重要無形文化財に指定されている。
 宴席では雑談を交えながら色々な話をしたが、各自が普段は別々の仕事を持ちながら、神楽の灯を絶やしてはならないと誇りをもって続けており、その熱意がひしひしと会話の節々から伝わってくる。途中、全員で唄ってくれた変拍子の「祝い唄」は何とも心地よい声と手拍子だろうか。仮面をつけて舞う神楽の演目は40に及ぶというこの宮古の豊かな民俗芸能を一度現地でじっくり観たいものである。震災後、絆と云う言葉があちこちで聞かれるようになったが、彼らのような芸能者をみていると絆以上のもので固く結ばれていることがよく分かる。春陽と黒森神楽、それぞれ異なる芸能ではあるが、共に宮古の地から誕生した素晴らしい文化遺産であり、伝統である。そしてそれらを伝えているのは素晴らしい人たちだということが今回の旅でよくわかった。

神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」によせて (四)「土取利行・語りと弾き唄い〜唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの〜」


 2013年3月2日から4月14日まで、神奈川近代文学館で開催された「添田唖蝉坊・知道展〜明治・大正のストリート・シンガー」の記念イベントとして4月6日に「土取利行・語りと弾き唄い〜唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの〜」が開催された。この特別な会に出演することになったことには、いまだ自分でも不思議な気がしている。何度も書いているように、これは桃山晴衣添田知道氏から二十年間にわたって学んできた「演歌」について、彼女が遺していた添田知道氏や唖蝉坊の著書や、知道氏の肉声を含む音源を整理し、あらためて熟読、塾聴していくうちに、「演歌」の重要性を再認識し、彼女のもう一つの声であった遺された三味線の音を絶やしたくないと思いつつ始めだしたのが発端であった。

 この画期的な文学展を可能にしたのは、1985年に添田知道氏の甥、入方宏氏が管理していた添田唖蝉坊・知道の資料を神奈川近代文学館に寄贈していたことによるもので、それらの遺品や資料をもとに収蔵コレクション展として発表されたのである。この収蔵品のなかには知道氏へ宛てた桃山晴衣の手紙が12通と知道氏主宰の雑誌「素面」への原稿なども入っており、生前桃山とここに伺おうと云っていたのだが、残念ながら彼女は文学館に足を運ぶことなく昇天してしまった。今回、精力的にこの展覧会の企画・構成に携わったのは近代文学館の中村敦氏で、私が「邦楽番外地」と題して唖蝉坊・知道演歌を語り、唄っているということをどこで聞き知ったのか、京都の若者が集うDJ倶楽部での公演にまで足を運んで頂き、そこで今回の出演依頼を受けた次第である。

 今回の公演は一時間半の中で、添田唖蝉坊と知道氏のうたを唄い、話をしなければならず、どうしても持ち時間が足りない感じなので、あらかじめラフな構成を作っておいた。ところが、いざやってみると予定時間がきても知道氏の話や唄にまで行き着かず、主催者側が時間オーバーを認めてくれ結局三時間の延長公演になってしまった。
 プログラムでは唖蝉坊と知道氏の生きた時代を、二人と関わった人物を織り交ぜ、唄とともに紹介したいと思っていた。中でも私が最も重要と考えた人が、唖蝉坊婦人で知道氏の母親の添田タケの存在だった。知道氏の書かれた『母の思いで』や唖蝉坊の『唖蝉坊流生記』の中で紹介されている、彼女が遺した唯一の句がある。

<添田タケ>
 「砂を捲く 風さみだれと なりけり」
 という句であるが、この句に節をつけ三味線で唄うことから始め、この句についての解説を知道氏の文章で説明した。
 「現今の都会はどこもコンクリートの蓋をされて土をみられない。煉瓦道とかなんとか部分的な舗装はあっても、概ねの地面は土でした。その土が日照りに渇いて、土埃りが舞う。旋風が地をころがるように見えることがよくあったものです。小さなその嘱目吟が予報的にもなっている。予感句でもある。この予感が情景描写に止まらず社会的にも通じますね。日露の風雲という怪気象が招いたスモッグ状況の中におかれている私でありあなたたちであるという、すごい句だと思いますね」
 タケがこの句を詠んだのは唖蝉坊の名を一躍有名にした「ラッパ節」が誕生する頃、壮士演歌の梁山泊といわれた青年倶楽部を解散し、独立して演歌師を続ける彼のもとに志願者が集まりだし、タケの寝ている枕元で皆が句を詠み始め、彼女も寝ながら読んだと云う句。知道氏の云う「予感句」「日露の風雲という怪奇象」そしてこれらのスモッグ状況の中で方向を見失ってしまっている日本国民。日露戦争の足音をタケは聴いていたのである。
 その頃流行った「ラッパ節」の由来、その誕生譚。そして堺利彦との出会いで生まれた「社会党ラッパ節」。自由民権思想を声高に唄っていた唖蝉坊がここから社会主義メッセンジャーとして社会主義を啓蒙し、底辺庶民、労働者の声を代弁すべく唄い続ける。この時期、一年間で作った唄が今の若者達、フォーク、ロック世代を引きつける「あきらめ節」「ああわからない」「ああ金の世」「四季の歌2・女工哀史」等々。(すべて唄う)。

 そして絶頂期と思われた唖蝉坊に突然の悲劇が。翌年からの二三年間、唖蝉坊は唄を作れず唄えず、低迷状態に陥る。それとは対照的に神長瞭月がバイオリンで「スカラーソング」や「ハイカラソング」を持って一世風靡、世は書生演歌の時代と成り代わる。唖蝉坊の悲劇とは、29歳の若さで妻タケが産後の日立ち悪く、他界したことだ。
 このときの様子を知道氏は先の『母の思い出』で述べている。知道氏はおばさんのうちに預けられ大磯小学校に通っていた。タケは妊娠し、そのおばのうちで出産をとでかけたのだが、旧式な考えの叔母と生活がうまくいかず、結局、横浜の姉の家で二人目の子供、知道氏の妹を産む。このとき唖蝉坊も帰ってくるが、いわゆる産後のひだちがわるく、そこで亡くなってしまうのである。知道氏は、その時の様子を子供ながらに見ていた。「ともかく七十日間看病したということ、いよいよ亡くなられて、それまでは借金の言い訳が出来るようになれば主婦も及第だなどと冗談を言っていた父が、主婦が家を支える為の陰の働きがどんなものかもだんだんわかってきたでしょう。それで死なれて大変なショックになるわけです。・・相手の持っていた中身なり新価とかいうようなものが判るということが、失って初めて判る。大変な打撃だった」と。
 添田タケは唖蝉坊に最後に「こんなにお世話になって」と云って逝く。そして唖蝉坊は煩悶する。
 「さらでだに弱い妻は、肉体をすり減らしていたのだ。無惨にも私は窮乏の中にいた。妻は色々な嵐の中をくぐってきた。その中で尚勉強をしていた。英語をはじめてもいた。妻は死んだ。・・己が殺したのか、・・社会が殺したのか。・・そればかりが私の頭の中をめぐっていた。」このとき一応葬儀はしたもののさっと仕事をすますように親戚一同も引き上げたという。そんな中、堺利彦婦人の為さんが弔文にそえて五十銭の為替を送ってくれたそうだ、知らせてもいなかった婦人から、妻への特別の心を寄せられた手紙で嬉しかったと唖蝉坊は記している。彼は知道氏の「早く帰って来てね」という声がしみ横浜に留まろうかと、思い悩んだが東京に一人出て行く。
 この頃唖蝉坊は演歌をやるような気持ちになれなかったといっているが、そんな彼を元気づけ誘ったのが長尾吟月氏で、浅草の十二階下を流し「金色夜叉」うたっていたという。また唖蝉坊は仲間から散乱している演歌者を統合し、「東京青年倶楽部」を作ったものの、かつがれただけで何もできない放心状態だったともいう。
 妻タケの病気と死。そして同年、社会的には堺利彦の盟友、幸徳秋水大逆事件に巻き込まれ、44年の1月に処刑されたのである。
 もう唖蝉坊演歌はこれで終わるのか。しかし彼の中にうたの光が射し込み始めたのである。唖蝉坊は唄で逆境を乗り越えたのだ。
「私は『新流行歌』が新しい意味と内容を持つことに興味を感じて、遂にその中に投じたのであったが、当初それは政治運動の具であった。やがて「具」であるだけでは私には満足出来なくなった。単に悲憤慷慨風刺嘲罵を怒鳴るだけでは慊(あきた)らなくなってきた。それはあまりに上辷りであった。ほんとうに心から「うたって」みたくなった。人間の心をうたい、民衆の、私達の、生活にもぴったりと触れて行きたかった。そして又、歌を真の「歌」の道に引き戻したかった。過去の演歌はあまりに壮士的概念むき出しの「放声」に過ぎなかった。いうならば、芸術的良心といったようなものが、私の体内を這い回るようになっていた。その願いの現れが、むらさき節となった。このむらさき節に於いて、ようやく完全に近い宿望の発現を得た私は愉しかった。ようやく演歌に打ち込める気持ちとなった」

 この特別なうた「むらさき節」をここで唄う。明治時代がこれで終わり、大正時代が続く中、変わらず戦争に明け暮れる日本だったが、唖蝉坊は立て続けに演歌を作り、唄い続け、やがて「東京節」でデビューした知道氏も数多くの作品を発表するに至るが、大正12年の大震災を契機に、復興で様変わりした都市にラジオ放送局が出来、レコード会社が設立され、歌詞を売って唄をうたってきたヨミウリスタイルの演歌師の職場から人が段々と離れて行き、人から人への唄の直接的な伝わり方が希薄になり、機械に依る音楽の間接的な伝え方が一般に拡がってゆく。大正14年、唖蝉坊は明けても暮れても戦争と成金ばかりが楽をする社会に嫌気がさしたかのごとく、阿呆陀羅経のような長い「金かね節」を遺して演歌の世界から去っていく。

それは知道氏もしかりで彼は作家への道を邁進して行き、大正時代が終わると演歌師は流しの歌い手となって、やがて歌謡曲、艶歌の世界へと変容していってしまう。
 「砂を捲く 風さみだれと なりけり」とタケが読んだ一句。
 スモッグ状況の中で日本国民は道を誤らなかったのだろうか。今、そのスモッグは消えてしまったのだろうか。あのスモッグのなかで唄い続け、声を失くし、再び歌に命を見いだし、そして社会によって生きた歌を奪われた、唖蝉坊の演歌人生。晩年、四国遍路の旅を続け、「私がもし仏道に帰依するようにならなかったとしたら、世界を見るの明を失い、国土経営の天業に翼賛し得る後裔に浴しおくれしやもはかられぬ。仏の道にも沿い、子孫に伝えてやましからざる人生を味わい、歓喜に生きようと思う」と『流生記』を結んでいる唖蝉坊。
 今回の公演では、添田親子の生き様を年代毎に歌とともに振返ることによって彼らの心の内を垣間見ることができ、彼らの歌に対する真摯な姿勢を一層理解することが出来た。そしてそれは桃山晴衣が持ち続けてきた歌に対する姿勢と深く結びついていることも。
 
■関連記事「Real Tokyo編集長、小崎哲哉氏コラム「唖蝉坊と土取利行」

神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」によせて(三) 「竹久夢二の世界から添田唖蝉坊・知道の世界へ」

 ここ二年近く「添田唖蝉坊・知道の演歌」の世界を唄い、語って各地をめぐり、今月二枚組の唖蝉坊・知道の演歌だけを収めたCDをリリースした。これまで古代音楽をずっと追求し演奏して来た私にとって、明治大正の、しかも演歌の世界を自ら展開するとは、思ってもみなかったのだが、すべては桃山晴衣と一緒に歩み、創造してきた作業の重みを、彼女が亡くなってからより一層感じだし、彼女が、そして彼女と、出来なかった未完の作業をできるだけ遂げたいという思いにかられての行動でもある。

CD「夢二絃唱」
 私が桃山とパリで出会ったのが1982年、その翌年に「インターエスニック・インプロヴィゼーション」と題したコンサートを東京、大阪、名古屋で開催し、同時にパリではピーター・ブルックの「マハーバーラタ」の初演も近づき、音楽監督を努めていた私は日本とパリを慌ただしく行き交っていた。「銅鐸」の演奏という前代未聞の演奏もこの時期に巡り会い、桃山は日本での私のプロデュースも引き受けてくれるようになっていた。そして「マハーバーラタ」の初演が85年にアヴィニオンで終わり、一時日本への帰国が可能になったとき、以前から彼女が構想していた新たな語り物の創作にとりかかることになった。それはアナーキスト詩人の秋山清氏が桃山に以前から約束して書き下ろしてくれていた竹久夢二の語り物だった。もともとこれは桃山が秋山さんとの長い信頼関係のもとに生まれたもので、彼女の「婉という女」につぐ現代語の浄瑠璃のようなものになるはずだった。しかし「婉という女」とちがい夢二は男性であり台詞などもかなり無理があり、ずっと手つかずのままだった。そして私と会ってからこの作品の可能性を模索し始め、私が語りで加わることで新たな形が見えて来たのである。以下はこの夢二の作品をCD化したときのライナーノーツによせた桃山の文であるがここにその経過などが記されており、また添田唖蝉坊・知道演歌への兆しもチラッとうかがえる。

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 『私と夢二』桃山晴衣
 人間は誰でも強さと弱くてダメな自分、という両極を持っている。そのはじからはじまでを往き来せざるをえない生の、揺れ動く振幅のはざまから、葛藤の襞を映して炙り出されるものが、音楽であり、絵や学問であるのだと思う。
 夢二はたえず自分に疑問を抱いていた人であったのだろう。その両極を揺れる幅の大きさが、自分に正直だったひとだということを感じさせる。(強さの方へ自分を固定させ、ダメな自分に蓋をしてしまったものには、広がりと自由さがない。やさしさとぬくもりが失せている。が、かたくて詭いそれらを、人は権威と強さだと錯覚する)。大正の情感をうたわれる夢二の絵に、私は叛骨とニヒルをみる。そして何よりの勁さをみる。子供の頃から、教室でみなが騒いでいる人気者の子役や歌手の方はさっぱりなのに、さし絵画家の名ならすぐ覚えた、なかなか個性的なそれぞれの持ち味は今も記憶に残っているが、そのうちでも夢二は特別であった。
 「あなたは正統画壇に入るのはおやめになった方がよい。岡田先生がアドバイスされたんだ」とそのいきさつを話し、一線を画して夢二に接する、画家であった父の態度と、尊敬して止まなかった師、岡田三郎助の言葉というお墨付きのせいもあるだろう。が、いくら質の高さを説明されてもなじめなくて、大きくなってからやっと理解出来た画もあえる中で、夢二は違っていた。最初の出会いから違和感がなく、子供でもすーっと溶け込んでしまえる画面が不思議だった。
 二十代になり、添田知道さん(演歌の祖添田唖蝉坊の子息で演歌作者であり小説家でもあった)と、国電のホームに立っていると「おやおや、どこのお嬢さんとご一緒で」と少しおどけた口調の、夢二そっくりの男性から声をかけられた。息子の不二彦さんだった。
 添田先生のお宅の奥には、古ぼけた写真が飾られていた。大杉栄荒畑寒村堺利彦夫妻とまだ幼い息女の真柄さん。唖蝉坊夫妻と幼少の知道などが並んでいるそこに、竹久夢二も立っていた。それは官憲の眼をごまかすため代々木の原っぱで野外集会を行った時撮影したものだそうで、私にとってはまた新しい夢二との出会いであった。
 寒村会では荒畑先生の口から悪口めいた話が面白かった。志を同じくした人からは夢二の版画を送られて恐縮したり、身近につながる人を通して夢二とのかかわりは途切れることなく続いていた。そこへ秋山清が「君に、ぼくの最後の夢二を書いてあげよう」と云ってくれたのだった。

 夢二について幾冊か著作のある、アナーキスト詩人秋山清は、前述の夢二につながる人々とは対立があり、少し別のところにいる。それだけに、細部にまどわされぬ客観的な捉え方が新鮮で、夢中になって話し合ったりした。
 約束の台本は、婦人の逝去や引越など、晩年の変動期にかかり、一度かかれたものを紛失。どうしても見つからなくて、大変な日常の中を、再度やり直し。ふりしぼるようにして書いて下さったものである。受け取ってみると構成も未完。終章部分がほとんど出来ていなかったのは、私の意見を聴き入れながら完成させてゆくつもりらしかった。
 それからまた数年たった。たたいてもビクともしないような秋山さんだったが、何となく予感がして、お元気な内に聴いて頂きたく猛烈なスケジュールの中を86年夏、無理矢理公演にこぎつけた。資料を集め下調べののち、岡山の夢二郷土館と長田幹雄先生をお訪ねし詞章を出典から調べ直し、おびただしい写真を撮らせて頂き、内容をかためていった。が、土取と初回の打ち合わせの後、秋山さんの病状はみる間に進み、肝心の彼との作業をあきらめねばならなくなった。

 構成はバラバラであったのを思い切って組み替えた。詩人ならではの言葉と、秋山さんらしい見方や対し方が光っている内容はそのままに、原本をこわさぬよう、彼に習って夢二の詞章から何カ所かを抜粋、引用して埋めた。また音楽部分が大変少なかったので、彼の選んだほかにいくつか足した。この段階になると土取との共同作業となり、長い間続いて来た竹久夢二とのかかわりが、一つの<かたち>となったわけである。(CD『夢二絃唱』の解説文より)
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 桃山晴衣との初めてのコラボレーション「インターエスニック・インプロヴィゼーション」では、桃山のうたや三味線曲に応じて様々な楽器を用いて即興演奏を展開し、ドラムセットと三味線の自由即興演奏なども行ったが、この「夢二絃唱」ではタイトルに示されているようにうたと語りと弦楽器だけで構成している。ここで桃山は多くの夢二の童歌を作曲して唄った他、宮薗節の優雅な三味線での弾き唄いによる唄も作った。そして私は三味線の他の絃楽器、とりわけアジアのそれをいくつも演奏し、夢二の歌詞で数曲を作曲し唄った。また多くの語り部分はイランのサントゥールの伴奏で行った。この時のリハーサル段階で桃山からは日本語の語り方、唄の間の取り方など、演奏を通して学び、三味線とアジアの楽器が西洋の楽器よりはるかに日本語の唄に響き合うものだということを再考させられた。

 この時は桃山の文にあるように秋山清さんはすでに病状が進んでいたのだが、初演には足を運んでいただきお目にかかることができた。その後、各地からこの「夢二絃唱」のコンサート依頼があったのだが、当時はよくぞこんな活動ができたなと思うほど日本と世界を飛び回っていたため、これを継続させることができずに終わってしまった。というのも丁度「銅鐸」の演奏が話題になり、「旧石器サヌカイト」の演奏に着手し、「縄文鼓」への道にすすんでいたのと、「マハーバーラタ」世界公演がずっと続き、これらを同時進行させていたためである。そして再び、桃山との演奏をするようになったのは、二人で岐阜県郡上八幡に設けた拠点「立光学舎」での十年近くに及ぶ地元に二百年間続いて来た地歌舞伎の人たちや子供達との芸能活動や、学舎主宰のワークショップを通してである。とりわけワークショップで桃山は「演歌」を日本の大切な唄の一つとして取り上げ、その発声法、節回し、さらには歴史背景なども教えていた。ワークショップは私と共同で行っていたため具体的に私も一緒に演歌を唄ってはいたものの、とりたててそれに集中したというわけでもなく、そのころは桃山の宮薗節や小唄、端唄、復元曲といった三味線やオリジナルの唄の方にむしろ惹かれていたといえる。
 今、私が桃山晴衣の三味線を持ち、演歌を唄い始めだしたのは、彼女がなぜ添田知道氏の最後の弟子といわれ演歌をやっていたのかが、これまでの彼女との共同作業だけではなく、遺されたそれ以前の邦楽における仕事などを検証して行く中で、深く理解できるようになってきたからである。
 「夢二絃唱」を演奏した当時、私は既にインドを何度も訪れ、ベンガル地方タゴール学園でタゴールソングや、エスラジと云う弦楽器を習い、これらを「マハーバーラタ」の中でも用いてきた。そして今回の大冒険ともいえるCD「土取利行 添田知道・知道を演歌する」は丁度「夢二絃唱」でも弾いたエスラジと桃山晴衣の三味線という、日本とアジアの楽器で全編唄っている。
 こうして振返ってみると「夢二絃唱」は「唖蝉坊・知道演歌」への序章ともいえるべき作品で、桃山なくしては実現できなかった。桃山晴衣添田知道氏と二十余年の付き合いがある。まだ二十代の時からご意見番として相談に乗って頂いていたし、邦楽界と一線を画し桃山晴衣としての道を歩みだした頃、自分の歌を形成して行く中で「演歌」を添田知道氏から徹底して学びだした。添田先生の馬込の家に三、四年、半内弟子の形で晩年の先生の家事手伝いもしながら、とりわけ演歌の節を一つ一つ聞きただし、唖蝉坊や知道さんの時代のこと、演歌師のことなども多く教えてもらい、先生と演歌の旅をし、自分の於晴会でも先生と演歌について語り唄ってきた。また添田知道氏に連れられていった荒畑寒村の会では、寒村翁はじめ堺利彦の娘の近藤真柄さんや明治人の人たちの前で演歌をうたい、その熱い反応を肌で感じてきた。しかし桃山晴衣はいわゆる演歌師になり演歌を自分の活動の主軸にしようとは思っていなかった。その理由の一つは古曲宮薗節の家元にならなかったのと同じで、観客がすでに真の演歌というものから余りにもほど遠いところにいて、一つのイメージにしばられすぎており、桃山の理想とする「今のうた」にならないと思ったからである。もう一つの理由は、夢二の語り同様、演歌もまた極めて男の世界といった感が強く、演歌だけで自分の世界を作るのには無理があった。それもあって、ワークショップなどではとりわけ男性に集中して力強い演歌を教えたりもしていたのである。


 桃山晴衣は明治時代に演歌と同時に流行していた邦楽の小唄、端唄、都々逸、長唄、そして古曲宮薗節という三味線と歌をマスターしていて、これら江戸時代の庶民から生まれ発展して来た歌と、明治の文明開化から壮士達によって始められやがて唖蝉坊や知道さんたちによって歌謡曲への流れが作られて行くこの演歌の違いにも関心があり、これらを基に「今、響き合えるうた」を作り唄おうと模索し続け、その成果として「梁塵秘抄」の世界に到達したのである。添田唖蝉坊・知道の演歌は明治と云う近代が生んだ庶民の流行歌であるが、「梁塵秘抄」は中世の庶民が口ずさみそれを遊女(あそび)たちが唄い伝えた「今様歌」であり「流行歌」である。桃山がもっとも惹かれていた「梁塵秘抄」の伝達者、延寿は中世の女性演歌師のような存在ともいえなくはない。また「梁塵秘抄」に惹かれたことの一つにこの歌を唄っていた足柄の遊女のうた声が「天に澄み渡る」声であったという記述が残っていたことと共通して、演歌に興味をもったのは「唖蝉坊の声が、高く澄んでいて美しかった」という多くの人の言葉を聴いたからである。この中世と明治近代と云う時を隔てて誕生した流行歌、一つは女性によって、そして一つは男性によって唄われたこれらの歌。桃山晴衣が遺していったこの唖蝉坊・知道演歌の世界をどこまで辿れるかは分からないが、唄い、弾き進むより他はなし。
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神奈川県立近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」記念イベント
土取利行・語りと弾き唄い「唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの」
4月6日(土)午後2時開演(午後1時30分開場)
神奈川近代文学館・展示館2階ホール
料金:1000円
神奈川近代文学館/(公財)神奈川文学振興会

遂に発売!!!2枚組CD「土取利行 / 添田唖蝉坊・知道を演歌する」

 昨年の12月から二ヶ月間、寒風吹きすさぶ郡上の我が家でコツコツと録音を続けてきた近代流行歌の祖、添田唖蝉坊・知道の曲を網羅したCDが遂に完成。ここに至るまでの経過は、これまで幾度か書いて来たので省略するが、凡ては我が伴侶の桃山晴衣添田知道先生から長い間「演歌」を学んでいたことに始まる。そして彼女が昇天した後、未だに終わっていない多くの遺品、資料の中から貴重な演歌の資料、音源などが発見され、その重みを感じつつ、いつの間にか桃山の三味線を手に自ら唄いだしていたというのが実際のところである。
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<土取利行/添田唖蝉坊・知道を演歌するCDジャケット>
さて本CDは2枚組で、全27曲.<ディスク1>
1 拳骨武士 2 チャクライ節 3 ストライキ節 4 ラッパ節 5 社会党ラッパ節 6 あきらめ節 7 ああわからない 8 ああ金の世 9 ゼーゼー節 10 思い草 11 むらさき節 12 奈良丸くづし 13 マックロ節 14 カマヤセヌ節 15 現代節<ディスク2>
1 青島節 2 ノンキ節 3 ブラブラ節 4 ああ踏切番 5 東京節 6 つばめ節 7 虱の唄 8 復興節 9 ストトン節 10 月は無情 11 恋を知る頃嫁ぐ頃 12 生活戦線異状あり

以上の曲目であるが、演歌は全歌詞を聴いてこそ意味があるという添田知道先生の言葉もあり、ほとんどの唄は歌詞を省かずに収めたために今回収録できなかった唄も少なくない。ディスク1の「拳骨節」から「現代節」までは全て唖蝉坊の曲、初期の壮士青年倶楽部の時代から、独自の演歌を繰り広げる絶頂期の頃の唄を年代毎に並べた。そしてディスク2の「東京節」から知道氏の曲が加わり、最後は唖蝉坊の最後の唄「生活戦線異状あり」で締めている。
 なお今回は唄、演奏、録音、ジャケットデザインまで独りで行なってきたが、最後のミキシングは間章の時代のときから音響をやっていただいている須藤力氏に大いに助けていただいた。
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 この演歌は、いわゆるバイオリン演歌でもフォーク演歌でもロック演歌でもない。桃山晴衣は自分で演歌の会を持っていた頃、某評論家から「あんたの声は演歌声じゃない」といわれて、添田先生に「唖蝉坊の声は澄んで高く美しい声だったと誰もがいうのに、なぜ演歌師の声を濁声と規定してしまうのですか」と聴いたことがある。演歌のみならず、三味線で小唄を唄っても芸者や四畳半しかイメージできないのと同じく、演歌や三味線音楽は現代の日本人に非常にいびつな形でしか理解されなくなってしまっている。
 今回、私はこの三味線にこだわった。なぜなら唖蝉坊自らが記しているように、演歌は明治、大正期を通して変化はしたものの、その背後に流れる情緒は依然伝来の「三味線調」であると。そしてその意味するところは、昭和に入って演歌の時代が終わるとともにレコード産業による歌謡曲が広がり、演歌とは無縁であったピアノやギターと云う西洋の和声楽器が伴奏の主軸になり、初期の演歌師がアカペラでうたったり、書生がバイオリンだけで唄ったりしていた時とは基本的に異なるものとなっていったからである。私はインドが長かったせいか、そこでやはり西洋の和声に支配されていない、伝統音楽を唄、楽器ともに学んできたし、日本では桃山晴衣の三味線と洗練された彼女の唄い方を学んでもいた。それゆえ、本CDでは三味線とインドの擦弦楽器エスラジ、バンスリ(笛)、ネパールの太鼓(ダマル)などを自ら演奏して録音にのぞんだ。皮肉なことに演歌の時代は大東亜戦争の時代でもあり、日本は元来の伝統文化の礎ともいえる亜細亜各国に侵略の手を伸ばし、列強の一員と成ることばかりを夢見、日本音楽は洋楽至上主義と化し、音楽教育にまでそれが浸透してしまい、現代にいたっている。こうした意味で、本CDは現代の日本音楽に対する私のささやかな抵抗の調べでもある。


神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」に寄せて(二)/<近藤真柄・老婆の口説き>

 以下の一文は桃山晴衣添田知道氏とともに参加していた荒畑寒村氏の「寒村会」で出会った堺利彦氏の長女・近藤真柄さんに、機関紙「桃之夭々」に寄稿していただいた一文。桃山はこの会で「唖蝉坊・知道演歌」を唄っていた。

荒畑寒村の「寒村会」での荒畑寒村桃山晴衣添田知道
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「老婆の口説き」近藤真柄
 秋の彼岸月のせいであろうか、年のせいというべきであろうか、この頃お墓の交際(つきあい)が多かった。二十数日間に五回もあったのだから、やはりその方向へ道がついたのだと思わざるを得ない。しかし何もびっくりすることも、突然の出来事のように慌てることもない。むしろ当然のことなのである。平均寿命が延びて、しかも女の方が四、五年も長くなったとはいえ、古来稀なる七十才を越えて、三年もたっているのだから、交際もあの世の方に多くあるのだが、当たり前のことである。
 そしてこれも当たり前のことなのだが、何だかおかしくてたまらない気になるのが、自分が父より年上になっていることである。私の生母は私の一歳半位で病死してしまったので、記憶にないから思いだすこともできない。育ててくれた母は、八十六才十一ヶ月で死んでいるので、記憶も深いし、思い出もあり、また自分の現在より、大部年齢の開きがあるので、比較してみたり、手本にしてみたり、瀬ぶみのメドにしてみたりして、喜んだり、悲しんだり、嘆息したりするのである。父の場合は、私が丗歳のとき、六十二歳で死んでいる。比較的壮年期から堺老だと呼ばれていたし、好好爺とも狸親爺ともいわれ、単純陽性とも、老獪ともいわれていた、謂わば並の年寄り、ただの鼡ではなかったような父が、今の自分よりも若くして死んでいるというのが、本当に妙である。でもただおかしがってばかりはいられない。

<近藤真柄・桃山晴衣
 短くてもいい仕事、役に立つ仕事をしていたら、それで結構、立派で羨ましいことであるのだが、私のように徒に生きてしまって、さらに徒に生きようとするつもりもないが、やむなくそうならざるを得ないことになり相なことが辛い。まわりくどい言い回しになったが、老極に至って、急に偉くも賢くもならないということで、長生きすれば辱多しという言葉が、最もよくあてはまる現在の自分をみると、やはり辛い。
 辛い、辛いと唄ってみても、どうなるものではない。自分が年寄りになる頃には、世の中の組織がよくなってきて、少なくとも最低の生活保障はされている筈だ、いやそうしなくてはならないと夢中になっていたのだが、そこに己を律する甘さと怠惰があったと反省させられる。幸せは向こうから歩いてこないというし、客観的条件はありながら、主観的条件の不備が力となり得なかったのである。
 ロッキード事件が暴露されて以来、七、八月、此の間に各種の選挙が十回各地で行われたが、結果は保守八勝、革新二勝、しかもその革新は以前から革新の地盤だったというのだから、選挙の勝敗には、口汚職事件は、かかわりなかったことになる。企業と政治家の密着に対する批判が投票で批判されなかったことである。郡山のようにその土地で起こった汚職事件で解散、選挙が行われたところでさえ、保守が勝ってしまった。もっとも四ヶ月前の選挙では五十余万票の差で勝った保守が、今回は八万余差であったことを見れば、四十余万を喰い入ったことになり、そこに前進を見ることは出来るのだが、もう一押し、二押しの力不足が、来るべき筈の転換を持ち得なかったのだ。有権者の意識不足だと云ってしまえば誰を怨みようもないが、全くここらで押し切りたいものだと思う。
 去日戦前に婦人運動をともにした旧友三人が久しぶりに会食をしたのだが、雀百まで踊り忘れずで、婦人相談員、民生委員、家裁調停委員、自治体委員などを、七十歳を越えた現在でも続けていて健在だった。それに引きかえ私は、生まれつき頭は悪いし、目には眼鏡、歯は入歯、耳は補聴器、足腰にはステッキという補強工作でやっとでは何も出来る筈がないと口説いたら、その上も一つ口も悪いときているんだからと、とどめを刺された。万事休すというところでお終い。(1976年9月30日)

神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」に寄せて/<添田知道さん・演歌について語る>

 今年の3月2日から4月14日まで神奈川近代文学館「添田唖蝉坊・知道展」が開催される。ここ数年、私が「邦楽番外地」と称して唄い、講演を続けてきた演歌の祖、添田唖蝉坊と知道、親子二代の関連資料を集めた展示会で、添田知道氏の甥の入方宏が寄贈した文学館のコレクション「添田唖蝉坊・知道文庫」からの出展が中心になる。生前、桃山晴衣から知道さんに出した手紙などもここに寄贈されているということを聞いていたので一度二人で伺いたいと思っていたのだが、彼女が逝去してしまい、その機会も遠のいてしまっていた。それがなんと私に今回の展示会記念イヴェントへの出演依頼があり、「添田唖蝉坊・知道演歌の底流にあるもの」と題し、三味線での弾き唄いとトークをやることになった。この不思議な演歌との巡り会わせについては後日述べることにして、ここでは添田知道師に長い間ご意見番となっていただき、晩年は先生から演歌の節を細部にわたって学んでいた桃山晴衣が自らの機関紙「桃之夭々」1976年の3号に掲載した於晴会での添田先生の簡単な演歌についての話を紹介しておこう。

添田知道さん、演歌を語る〜5月10日の於晴会から」

添田知道桃山晴衣
 明治時代、自由民権運動はひどい弾圧を受けましてね。演歌はそれへの抵抗の形なんですよ。当時、思想を訴える方法としては演説があっただけなんです。これは西洋輸入の方式ですが、常に官権がついてまわり、何かお上筋に気にくわないことをいうと、まず、「弁士、注意」とやり、それから「中止」となる。さらに弁士が代わってまた中止をくい、ガタガタして最後に「解散」ということで、追い散らされてしまう。演説会も思う様に出来ない。そこで形を変えて歌でやったらよかろうということになったわけです。
 ちょっと面白いことを憶いだしましたが、板垣退助が明治19年頃、フランスに行き、ビクトル・ユーゴーに会っているんですね。その時、ユーゴーに聞くわけですよ。「日本はまだ後進国だ。もっと大衆に自由の心を広めなくてはならない。それにはどうしたらいいだろう」とね。ユーゴーの返事が傑作でしてね。「私の小説を読ませなさい」というんですよ。「レ・ミゼラブルでも読ませろ」ということでしょう。愉快な話なんで覚えているんですが・・。ところで、昔からヨーロッパには吟遊詩人というのがいた。板垣はそれをちらっと見て帰国後、民権運動の立て直しをする時、漢語調の堅苦しい演説をやるよりも歌のような楽な形の方がいいんじゃないかといったというんですよね。それから演歌が始まったともいわれるんですが、確かなことはわかりません。が、ありそうなことですよ。で、説をとくかわりに、歌で演ずるというので「演歌」という新語ができたわけ。そして壮士自由演歌としていろいろ歌をこしらえたのですが、演説と違って屋内から街頭に出て行った。ここに一番意味があると思うんです。その場合、例えば「ダイナマイトどん」のように、げんこつを突き出すという具合にやっていた。演説にも決まり言葉で「わが輩をしていわれむれば」といった演説調というものがありますね。あれで歌をやっていたので、調子を強くする。歌うというよりもどなる。それでないと、やる方はやた気がしないんですよね。だから歌詞に「ストライキ」とか「やっつけろ」というひどい言葉が出てくるんですよ。
 そういう中で添田唖蝉坊は、歌はうたで静かに歌っても伝わるものであり、人々の心に沁み込んでいくはずだという立場をとっているんです。わざわざどぎつくやることはあるまいという考えを初めからもっていた。だから東京に多いときで三百人もいた演歌壮士の中では少数派だった。

 それから「ストライキ節」に触れますが、これは娼妓のストライキではなく、自由廃業運動なんですよ。証文で体を買い取られて、一定期間働く。今で云う人権侵害ですよ。そういうことは不当であるというので、裁判になったが、なかなかうまくいかない。これは函館の例ですが、一、二番とも駄目だったのが三番でやっと「自由廃業を認めるべきだ」という判決が下った。ところが廃業してもあとの保証がなければ「廓の女」と差別され、正当に生きられないという不都合が会った。更正するする施設、受け入れ体制がなければ自廃してもしょうがない。セックスを売り物、買い物にするのがどだい間違いであって、根本問題を解決せずに形だけで騒いでいるのはおかしいというのが演歌の”目”だったのですね。
 もう一つ。民権思想の普及の方法として演歌が始まったということには違いないが、それだけではなく、風刺、社会批判、文明批評ですから、小唄の類でなく、もっと語りで長いものを歌った。いまの新聞の社説みたいなもの、新聞代わりだったわけです。幕末から明治にかけ、新聞がぼつぼつ発行され始めるのですが、とる人は非常に少ない。町や村でも一人か二人ですよね。そういう人がまわりの人に読んで聞かせたのですね。字を読める人も少ないしね。それが演歌の一つのあり方だったのですよ。その中に批評があり、風刺があったわけですね。(添田知道

良寛修行の寺、玉島円通寺での唖蝉坊演歌の会

2012年11月25日三連休の最終日、どんよりした毎日が続いていたと思っていたら、うってかわっての秋晴れ。この日、今年から各地に巡礼を始めた「邦楽番外地・添田唖蝉坊・知道を演歌する」の本年最後の公演を岡山県玉島の円通寺で行うことになった。そもそもの運びは、良寛が十数年修行を積んだ名刹円通寺が唖蝉坊ともつながりがあったことに始まる。唖蝉坊が自ら綴った伝記『唖蝉坊流生記』の最終章に、玉島円通寺のことが書かれている。大正12年関東大震災を境に、唖蝉坊は演歌活動からだんだんと遠のいていき、63才となった昭和10年の秋から四年間にわたって四国、九州、中国地方へと遍路の旅に出る。この四年目最後の巡礼の途、立ち寄ったのが玉島で、そこで偶然良寛円通寺と巡り会うことになる。この巡り会いの記が興味深いので紹介したい。

<羽黒神社の石段>
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<備中の国へ入って二日目、朝早く寄島の町の宿を出た遍路姿の私は、暑い暑い照り続きの道を、汗と埃にまみれて、玉島の町まで歩いた。約三里半と聞いていたが、四里以上も歩いたような気がした。あんまり暑さが酷いので疲れた故でもあろうか。・・町へ入った時は、もう十二時を過ぎていた。

 町中の小高い所にある、郷社羽黒神社に参詣して、集印帳に朱印をいただいて、境内の樹蔭に寄り添うて休息する。此の時、団体の参詣者がぞろぞろあがって来た。学生と先生達のや、料理店の女達と其の抱主の組などが、忽ち境内に充ち満ちた。今日は七月七日、支那事変二周年記念日である。その為にこんなにお詣りが多いのだなと思った。そして私も、郵便局の記念スタンプを取って置こうと思ってそろそろと社前の石段をくだる。

<元郵便局の建物>
 局はすぐ近い所にあった。局もタテコンでいた。局を出て、町を見て歩いているうちに、商店の看板の中にふと私の目に止まったものがある。菓子屋である。「玉島名物良寛せんべい」と。そして又五六軒先の方に、「玉島名物良寛饅頭」・・。
 良寛和尚・・何の因縁が在るのかと思ったが、然しすぐに私の記憶も甦った。此の地に良寛さんが足を止めていたのだ。たしか中年の修養時代であったろうか。度々人の語にも聞いていたではないか。うっかりしていた、間抜けた話だ。今日も旅、明日も旅。行く日も行く日も旅の空。あんまり旅に馴れすぎると、旅にいて旅の気がしなくなって唯々ボンヤリして来る。これはきっと「旅中毒」という奴かも知れない。独りでおかしくなった。
 良寛和尚の足を止めていた寺は、曹洞禅の円通寺というのであった。今は此の付近一帯の山が円通寺公園とよばれ、玉島名所の一つになっている。寺の境内には良寛堂というのが建っている。私は公園に遊んでいた土地の老人に「円通寺には坊さんが居りますか」とたづねたら、「一人居りますが、今は不在のようです、あなたここの坊さんにでもなるつもりか」と云われた。樹下の石に据し一ぷくする。所持のトマトを食う、昼弁当也。しばし良寛の昔を偲ぶ。

円通寺本堂>

 良寛の追憶涼し円通寺
 四辺皆無明の名所夏霞
 貯水池の底に水あり旱り雲

 今日はただ歩くばかりでお修行(托鉢)する時間も過ぎたが、たとへ小々でも勤めを果たさないと気味がわるい。托鉢する。>
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 この後、唖蝉坊は玉島の町を托鉢して歩き、「私は玉島が好きになった。」と書いている。

 演奏会の朝、主催者の日高氏たちと車で岡山市から玉島の町に着き、午後のコンサートまでに時間があったので町を散策しようということで銀行の駐車場に車を止め、道路を渡ると羽黒神社という「唖蝉坊流生記」に出てきた神社が目の前にあるではないか。坂道を少し登ると、唖蝉坊が書いていたように町中の小高い所に郷社が、昔のまま建っており、社殿の前では七五三の参詣にみえた家族が神主さんに御祓を受けていた。なんとこの家族の夫婦は昨日、日高氏が連れて行ってくれた岡山のカフェで偶然出会った方だった。私たちは神社裏から登ったようで、本殿の前の石段を降りてゆくと、壁の剥げ落ちた白壁土蔵の民家や昭和初期の建物が並び、そこから河に出ると、私が子供の頃よく遊んだ同じような水門が残っており、なにか小学生に戻ったような不思議な気分になった。水門前の橋を渡ると昭和初期のままの商店街につながり、シャッターのおりた店も多いが、何とも懐かしい店ばかりが並んでいるではないか。(なんでも映画三丁目の夕陽の撮影現場にも使われたらしいレトロな町なのだ)そして唖蝉坊の目に飛び込んできた「良寛せんべい」と「良寛饅頭」の店まであった。もちろんせんべいと饅頭を買った。

さらに商店街を戻っていると、これまた古く今は閉鎖されている旅館が見え、その表にここがかつて岡山で二番目に開業された郵便局であったとの解説があった。この郵便局が、唖蝉坊がスタンプを求めて立ち寄った局だったんだと、またまた感動。ただ歩いていただけなのに唖蝉坊の軌跡を辿っているようになってしまっているのが何とも不思議だ。知らずのうちに町中で唖蝉坊と同じ道を歩いた後、小高い丘陵地にある円通寺に向かう。先の商店街、川、そして海を見下ろすこの小高い丘陵は、懐かしいまでに故郷の多度津とよく似ている。円通寺の駐車場からは瀬戸内海が一望でき、玉島の対岸に私の故郷多度津がある。子供の頃、「一太郎やーい」と手を振る婆さんの銅像の建つ、多度津の桃陵公園展望台から見ていた対岸の景色がこの玉島だったのだ。円通寺本堂に向かう手前には美しい石庭園があり、そこを抜けると重厚な茅屋根の本堂が見えてくる。良寛像の建つ本堂前の庭の紅葉を色鮮やかに陽光が照らしている。連休ともあって観光客も次々に訪れている。

円通寺でのコンサートより>
 公演は午後2時30分から。会場は茅葺き本堂の中、住職様が祭壇前を舞台に使わせてくれた。会場に足を運んでくれたのは総勢70名近く、岡山市香川県など遠方からの人も少なくなく、本当にありがたい。この夏に同じく日高氏が開催してくれた岡山西大寺での会も盛況だったが、今回は先の会に比べて中年層が多く、非常に落ち着いた雰囲気の会になった。演歌についての説明に30分、その後明治からの唖蝉坊節を紹介し、名曲ラッパ節から馴染みの唄を続け、「むらさき節」で会場が静まり、それと関係の深い「鴨緑江節」「青島節」を唄った後、今回は「ノンキ節」を唖蝉坊のものに加え、昭和になって知道師がつくったものも全曲うたった所で2時間があっという間に過ぎた。玉島円通寺と唖蝉坊の繋がり、郡上の宝暦義民の一揆の時代に良寛さんが活動し、晩年文を交わした貞心尼が亡くなった年に唖蝉坊が生まれているなど、いろいろと不思議な繋がりを話し尽くせないまま、また今回「ああ踏切番」などの長歌も予定していたのだがやはり時間不足で無理だった。和尚さんからは又是非やってくださいとの話もあったが、とにもかくにもこうした会が実現するのは、理解ある主催者の熱意と実行力が不可欠であり、岡山で今年二度もの演歌の会をもてたのも企画者・日高奉文氏の尽力のおかげだと感謝している。唖蝉坊ではないが私もまた「私は玉島が好きになった」と結んでおこう。