ウルヴィントーレ『追跡』

1963年西ドイツのフランクフルトで始まった元アウシュヴィッツ収容所員に対する裁判を基に、二年後の1965年にペーター・ヴァイスが舞台作品として書いて上演した『追跡』は、東西ドイツの各地だけでなくヨーロッパ各国でもあらゆる演出家の手によって上演され話題をよんだ。ヴァイスはこのアウシュヴィッツ裁判劇をオラトリオ形式で書いたが、当時彼の意図に反して朗読劇で上演するケースが多かった。しかし結果は「予想に反して、この作品は朗読会形式より舞台演出のほうが深く観客の心に突き刺さることが明らかになったのである。この効果こそがヴァイスの意図したものであり、もしこの効果が生まれなければ彼のオラトリウムはよけいなものどころか危険なものになってしまうおそれもあった」といわれている。
(ちなみに65年10月19日の一斉公開日にロンドンのオールドビック劇場もピーター・ブルックの演出で上演に踏み切っているが、朗読会形式だったらしい)。
 『追跡』初演から43年、アウシュヴィッツに象徴されたジェノサイドは、カンボジアルワンダ、すなわちヨーロッパからアジア、アフリカへとどまるところを知らず、反復を繰り返している。忘れることの常習性。あまりにも増幅しすぎたメディアによる情報の氾濫の中で日々かき消されていく記憶。ポルポトによるカンボジアの大虐殺は今も国連がらみの裁判が続いており、解決にいたっていない。ルワンダでもユニークな市民裁判制度のもと原因の追及が行なわれている。しかしわたしたちはいつの間にかそのことすら忘れてはいないだろうか。ウルヴィントーレの『追跡』は、ダイレクトにルワンダで起こったジェノサイドを劇化するのでなく、時間軸を半世紀前に遡らせ、ヴァイスの原作をより普遍的なテーマとして上演させたことにおいて画期的だった。役者たちのほとんどは、あのいまわしいルワンダの虐殺事件の被害者である。ヴァイスの脚本を淡々と、わざとらしくもなく語り続けていく彼らの演技が、わたしたちに含みのあるメッセージとして伝わってくるのは、アウシュヴィッツルワンダの距離の間にあるものゆえかもしれず、これこそが演劇的事件でもある。BANK ART 1929のM氏から来年のアフリカ会議に何か出来ないかとの相談を受けた時、ウルヴィントーレの上演を立案したが、十数人のメンバーからなる彼らを呼べるかは予算的に問題があった。それが解決したのが彼らの来日の一ヶ月少し前だったため、ほとんど全国的な情報宣伝ができなかった。またBANK ART Studioが今年秋のトリエンナーレのために一つのスタジオを除いて全面解体工事の状態で、スケジュール的にも問題が生じる等、前途多難であったが、主催者M氏の執拗な努力と情熱で何とか上演にこぎつけられた。こうして奇跡の公演が実現したが、多くの日本人に見ていただきたかっただけに3日間だけの公演は残念だった。彼らの再来日を期待してやまない。