梁塵秘抄の地、青墓・円興寺を訪れる

 桃山晴衣の三回忌を迎えた。といっても、彼女のことを没後三年目に思い出したり偲んだりといったことには、少々違和感を覚えている。というのも、他の誰かに逝かれた場合とは違って、毎日彼女は自分の中に宿っている感が強く、あの世とこの世を行き来する霊としては理解できないのである。自分はアジア特有の輪廻の思想や縄文時代から続いていると思われる祖霊信仰のようなものも実感としてわかるが、晴衣の死はどうもこれらの魂のゆくえとは合致せずとらえがたいのである。
 そこで節目にあたるこの機会に、彼女が足繁く通い続けていた「梁塵秘抄」ゆかりの地、青墓の円興寺を訪れてみたくなった。円興寺は延暦九年に、最澄が青墓の大炊(おおい)氏の帰依を得て山頂に寺を創建し、聖観音立像を本尊として円興寺と称したのに発するといわれている。当時は七堂伽藍の金堂が七間四面の荘厳さを放ち、坊舎、末寺など百余りの寺が建立されていたが、これらは織田信長によって焼かれ、万治元年(1658年)に現在の円興寺が再建されたとある。
 円興寺がなぜ「梁塵秘抄」と深くつながるのか。これは桃山晴衣が晩年に精魂をこめて書き下ろした『梁塵秘抄うたの旅』(青土社刊)に詳しいので是非一読していただきたいのだが、実は「梁塵秘抄」を後白河上皇に伝授した今様の歌い手たち、すなわち当時遊女(あそび)とよばれていた巫女的存在でもあった女性たちの集まっていた特別な場所がここ青墓一帯であり、円興寺を建立した大炊氏こそがこれらの遊女と深くつながりをもつ一族なのだ。そして桃山がとりわけ注目していたのが最後の今様歌伝授者ともいえる延寿とその娘の夜叉姫。後白河上皇の「梁塵秘抄」の中にはうたのなんたるかを記した「口伝集」があるが、ここに延寿も登場してくる。一般には上皇に歌を教えた乙前という遊女(あそび)がよく知られているが、桃山は『平治物語』や『吾妻鏡』にも登場してくる女性、延寿の存在に強く惹かれてきたのだ。
 桃山はこの延寿に主眼を置き、今様浄瑠璃「夜叉姫」を宮薗節の技法を用いて語り、うたってきた。以下はCD『夜叉姫』に記された彼女のライナーノーツである。
梁塵秘抄と大炊氏、そして延寿と源氏一族のつながりも分かりやすく説明しているので以下に記載しておく。

 「平治の元年、源義朝とその息子・義平、朝長ら一行が大炊長者【おおいのちょうじゃ】の延寿【えんじゅ】を頼り、美濃・青墓へ落ちのびてきたことから、悲劇の幕が切って落とされた。舞台となった長者屋敷で、自らの手にかけて朝長の首を討とうとする父。その腰にすがって止める延寿と夜叉(このシーンはボストン美術館蔵の平治物語絵巻にも描かれている)。年末から年始にかけて次々続く父と義兄弟たち肉親の修羅場を目前にして、同じ源氏の血を引く我が身の上を思い、まだ十一才の夜叉姫は、二月十一日、杭瀬川(古揖斐川)に身を投げて自決するのである。
 ちなみに大炊長者一族は、今様歌の名手を輩出しており、平安末、後白河院がその一生をかけ、当時の流行り歌である今様を集めて編纂した「梁塵秘抄【りょうじんひしょう】」の口伝集には、延寿をはじめとする幾人もが登場する。また後白河院梁塵秘抄の今様を教授したことで名高い乙前【おとまえ】もここの出である。
 今様歌は母娘相伝で伝えられるというから、まだあどけない夜叉姫も、次の長者になるべく研鑽にはげみ、天に澄みのぼるような美しい声でうたっていたに相違ない。なのに青墓宿は延寿の代で消滅し、夜叉姫の死とともに今様も終焉を告げた。
 ところで地元、美濃・青墓の周辺には、入水した夜叉姫の、遺骸は岸に上がったけれど魂は揖斐川を遡り、夜叉ヶ池で成仏した――という話が伝わる。夜叉ヶ池は長者の所領、池田郡【ごうり】のはずれにあたる千百余メートルの高地に、こんこんと泉の湧く聖地である。」     
                             桃山晴衣のCD『今様浄瑠璃・夜叉姫』のライナーより。

ということで、青墓、そしてとりわけ円興寺は桃山晴衣にとって聖地ともいえるところであり、彼女は何度もこの寺内で「梁塵秘抄」のコンサートをもってきた。こうした縁から地元に「梁塵秘抄を学ぶ会」が発足され、1992年に会員たちの尽力で円興寺内に梁塵秘抄の石碑が建立されることになり、そこに刻み込まれる「遊びをせんとや生まれけん」という歌詞を桃山晴衣が揮毫した。夜叉姫と縁の深い地元揖斐川に流れ込む粕川の自然石を使ったこの石碑、当時は青みがかった肌をていしていたが、今は灰色と鉄さび色の混じり合った重厚な姿を呈している。
 青墓に出発する朝、郡上は小雨がちらついていた。円興寺に着いたときも空は薄曇りであったが、この石碑の前に向かって行くうちに雲の合間から陽の光が差し込み、暖かい出迎えをうけた。そして自ずと脚が元円興寺跡と並立してある源義朝や大炊一族の墓所へと向かっていった。ここも何度か桃山と脚を運んだが、おそらく地元の郷土史家堤正樹氏の熱意と努力もあってか、今では教育委員会が参道を作ってかなり上りやすくなっていた。ここでもまた曇っていた空が晴れ、墓所に曙光が射し始めたのには驚いたが、それよりも源氏、大炊一族の墓所の背後にある山椿の小さな紅の花が一輪だけ囁きかけるように咲いていたのがことに印象的だった。

「遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
  遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ 揺るがるれ」

桃山晴衣が揮毫した円興寺に建つ梁塵秘抄の石碑の映像と桃山の代表作「遊びをせんとや 生まれけん」をYoutubeに新たにアップしたのでご覧ください。また円興寺に脚をお運びいただき、桃山の書に接していただければ幸いです。


遊びをせんとや生まれけん/桃山晴衣

今様浄瑠璃/夜叉姫