桃山晴衣の音の足跡(4)語りもの

桃山晴衣が父、鹿島大治氏の後見で桃山流を名のっていた頃は小唄、端唄、そして三味線の古譜解読による復元曲などがレパートリーの中心となっていたことを先に述べた。この頃は父上の意向が大きく作用していた時でもあったが、60年代中頃に四世宮薗千寿師の内弟子として一人上京したのを機に、自身の音楽活動も真剣に考えるようになった彼女は、秋山清添田知道加太こうじ安田武など、若輩の桃山とはおよそ繋がりの想像できない思想家や文化人たちをご意見番として「於晴会」と称する集いを定期的に開き、日本の芸能や音楽について意見を交わし合ってきた。そして後髪を引かれる思いで十年余の四世宮薗千寿師の内弟子に終止符を打ち、桃山流家元も打ち切り、「この現実の社会の中にあって、さまざまな生活を営んでいる人たちが、それぞれにつながることができたとしたら、充実したある世界をつくることも可能になるのではないでしょうか」と、邦楽とは無縁の人たちとの交流を目指し、桃山晴衣として茨の道を歩むことになる。その大きな転換期となるのが、名古屋で「糸の会」東京で「古典と継承」と題した演奏会を持つ1974年〜75年ではないだろうか。
   
 古典と継承シリーズ一回目のパンフ  「於晴会」での添田知道氏(左)と円城寺清臣氏(右)
75年創刊の「桃之夭夭」という個人機関誌第一号において彼女はこれらの演奏会の意義について、「私の音楽観あれこれ」と題して述べている。少し長いが記してみよう。
◎ 日本の音楽文化のよりよき発展のために、私たちがしなければならない問題は、山ほどあるのですが、早急にとりかからなければならないものに「古典の継承」があります。不幸にして明治維新の時、あまりに多くのものを切り捨てたきらいがあり、邦楽もその例にもれません。西洋音楽一辺倒に走った音楽文化のゆがみを正す必要があります。それには、多くの人が、邦楽をありのままの姿でとらえることから始めねばなりません。
◎人間は“無”から創造することは出来ません。いま、現にあるものをふまえることによって、未来がつくられます。祖先の残した足跡に、私たちは無関心すぎたのではないでしょうか。音楽は、ごく身近な日常の生活から生まれます。素晴らしいうたを、音楽を創ってゆこうではありませんか。
◎わたしは、邦楽とか、小唄というレッテルにしばられることによって、仕事の枠がきまってしまい、安住してしまうことをおそれますし、なによりも音楽という海の広さのなかで自由にものを考えたかったからです。しかし、新しいものを見出すために、古いものをわが心の中にすえるということは、とても大切なことなのだと思っております。
◎ 語りもの(浄るり)は、邦楽の中の大部分を占めているといっても良い程なのに、西洋音楽を尺度とする考え方の中では音楽として純粋ではないと云われておりました。私はさまざまな観点から日本人と具象というものに切りはなせない深いつながりを感じており、これからの音楽を考える時、語りものの持つ要素を生かしてゆきたいと思っております。
◎一方伝説、民謡、御伽話などの比較的よく知られている伝承的な物語に、生き生きとした祖先の生活や、現代に通じるテーマがあるのに気がつき、これを結びつけてみました。
◎ 明治以後、日本の音楽であった邦楽は、それなりに細やかに洗練はされて来たのですけれど、殆んどが、座敷の中に閉じ込められてしまいました。私達の生きるバイタリティはそんなものではない筈です。現在の邦楽に失われてしまった生きたエネルギーを求めて、私達にとって、もっとも大切なものは何かをいつも心に据えながら、今後共、従来の制約や先入観にとらわれないで、可能性を求めてすすみたいと存じております。
                     一九七五年一一月一〇日 桃之夭夭 第一号

 桃山のレパートリーについて触れようとして随分前置きが長くなったが、この「古典と継承」シリーズにおいて彼女はこれまでになかった独自の世界を切り開こうとしていた。それは上文の一節にあるように、伝説、民謡、おとぎ話などの中に残っている伝承的な物語の中に現代に通じるテーマがあるのに気づき、これらを新たな語りものとして創作したいという意欲にかりたてられたのである。そしてこれは宮薗節の内弟子時代からお付き合いのあった、「古典と継承」でも企画者の一人として名を連ねていた円城寺清臣氏の参画を得て実現するにいたった。その一つが「雪女」で、作:桃山晴衣とぐるーぷ、詞:円城寺清臣、作曲:桃山晴衣、落語家の桂小文枝大阪弁で語りを担当した画期的な作品。そしてもう一つが「長者と鉢」と題する中世の絵巻物「信貴山縁起絵巻」の物語を円城寺清臣氏が語りものとしての詞を作り、桃山が作曲したもの。

桃山は以前から「信貴山縁起」や「鳥獣戯画」などの世界に興味を持っており、御伽草紙なども語りにしたかったと生前話していた。そして宮薗節の語りもの大半が心中もので、世界が限られていることにも疑問をもっていた。この中世のイマジネーション豊かな庶民の想像力の世界は、その後、桃山晴衣を江戸から中世へと、「梁塵秘抄」の世界へと導いていくことになるのである。
なお円城寺氏は、日本音楽に関しては彼女が特に信頼を寄せていた明治生まれの厳しい批評家で、帝劇の座付の戯作者として活躍したり、戦後は募集の作詞やドラマに入賞しては食べていた時期もあり、長唄、小唄などの作詩家としてもよく知られている。市丸の「獅子頭」「つりしのぶ」「坊主道成寺」などは彼の作詞によるものである。また矢田挿雲著「江戸から東京へ」の出版編集なども手掛けるなど、江戸、明治、大正、昭和の日本芸能に関して幅広い知識を持っておられた方でもある。
桃山晴衣の語りものへの情熱は「梁塵秘抄」を経て、私と出あい二人の活動拠点である「立光学舎」を87年に設立した後、十年間にわたって地元の農民歌舞伎の役者たちや子供達と一緒に作り上げてきた「伝でん奥美濃ばなし」で結実していった。この作品は地元の民話や伝説、古老からの聞き書きなどをもとに、郡上周辺だけに残る話しだけをとりあげ、それをさまざまな形の語りもの、演劇として創作したもので、この作品についてはおいおい述べていくが、この一作目から桃山は「河童・ガワロー」「耳柿」「牛鬼」「山鳩の親子」「新四郎さ」といったこの地に伝えられて来た話しを語りものに書きおろし、作曲し、私の演奏、地元の子供たちや歌舞伎役者とともに立光学舎フェスティバルとして発表してきた。

全国に文化ホールという箱ものだけが乱立し、伝統文化が加速的に失われて行くのを目の当たりにしながら、私たちは地元でしか生まれないこの語りものの伝承に向けて全エネルギーを注いできた。郡上八幡の自然と人々を愛し、立光の地に自分の理想を実現しようと邁進してきた桃山晴衣。立光学舎での二十数年間、彼女と送った創造的な日から学んだものはあまりにも多い。