桃山晴衣の音の足跡(8) 岡本文弥と菜美子、その二

 「菜美子のこと」は今の文庫本の大きさのしゃれた箱入り単行本「芸渡世」に掲載され、その後版を重ねているが、そのたびごとに箱も本もデザインが異なり、一冊目にはなかった菜美子の写真が三冊目には登場して来る。岡本文弥師はほとんどの自著をほのぼのとした絵入りサインを添えて桃山に贈呈してくれていた。


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「菜美子のこと」岡本文弥  

小島菜美子と私が親しく付き合うようになったのは近頃のことであります。私の年齢から言えば本当は菜美子の母親である新内師匠藤松津賀吉と親しくなるのが自然であるわけですが、津賀吉は交際ぎらいの交際べたで余り世間へ出たがらない。私もどちらかと言えば似たり寄ったりの性分とて、このふたりが親しくなろう道理がありません。然し津賀吉は明治生れ、明治育ちの芸人で修行もしっかりしているし、芸がいいとおのずと人間もキリリとするものか、そんじょそこらに有りふれた芸術家や芸能人には感じられない何かを持っています。それはどこからともなく流れてくる沈丁花の匂いのような奥床しいものですが、私は津賀吉と親交はないけれど津賀吉の持っているいいものを感じ取っているので、兼てから好意は持っています。だから、よんどころない仲間の義理のおさらいなどで顔を合わせることがあれば、ほかの誰彼よりは打ちとけて話し合える仲ではあるのですが、別れてしまえば只それきりです。
 その津賀吉にきれいな娘のあることも私は聞いて知っていたし、親子ふたり暮らしで、べつに野心もなく芸ひと筋に生きているということも噂に聞いて知ってはいた。思いがけないその娘が初めて私を訪ねて来たのは三年前の三月のある日、その朝鶯の初音をきいたので印象が深いのです。
 津賀吉の家は入谷の裏町で壁一ト重で両隣に接しているが、夜、稽古を始めるとそれに冠せて一方では「遊女は客に惚れたとゆい――と怒鳴り出すし、もう一方ではマンドリンとかいう楽器をかき廻しそれに合わせて何やら騒々しいものを唄い出す、明らかに稽古の妨害、厭がらせです。さりとて当方から高飛車に異議申し立てする勇気も出ず、第一そんなの相手にする気にもなれない、と言って泣き寝入りしていては稽古が成り立たない。
「ほんとにどうしたらいいのでしょう」
 と言って菜美子は美しい眉根を寄せました。昔ならいざ知らず、時勢がこんなにセカセカして人間が気ぜわしくなってしまったこの頃では、お隣りの稽古に耳をすまして「ヨウヨウ」などと悦に入ろうというような風流人は皆無です。私も稽古を始めるとキット窓のそとでめざまし時計を鳴らすという隣りの男と怒鳴りあった経験もあり、「いやだネエ男のくせに女の声色なんか使ってさ」と聞えよがしの悪口ぶつける隣家の若妻に腹を立てたこともある。然し今の心境としては、
「菜美ちゃん、それはくやしくっても当分ほったらかしておくことネ、お弟子には気の毒でも少し調子をさげてサ、両隣が何を騒いでも気にしないことネ、おっかさんにも因果を含めて、当分こっちがバカになること、負けるが勝ち、絶対に戦っちゃダメと思う」というほかありませんでした。案のじょう二三カ月うちには両隣とも飽きて、興ざめしてそんなことをしなくなった。一方の若い工員なんか「おばさん、おれ、新内習ってみようかナ、こないだ新派の鶴八鶴次郎見たんだ、花柳の鶴次郎とてもスマートでイカスじゃないか、おれ、新内習ったら鶴次郎みたいになれるかナ」と、いささかよろめきたる次第の由にて菜美子は負けて勝った解決を心から喜び、そんなことから足繁く、と言っても七日に一度くらい、何ということなしに訪れてくるようになった。逢えば話が合うし、うまが合うということで私は、菜美子が私を訪れることを楽しむように私も菜美子を心待ちするようになりました。

 昔のたとえに、立てば芍薬、すわれば牡丹、歩む姿は百合の花――然しこれは柳腰を美女の条件とした時代の形容で現代には当てはまらぬでありましょう。然し菜美子は若さの美しさにあふれ、立てば芍薬の如く匂やかに、笑えば牡丹の花咲きたる思い、そのくせほそほそと立ったうしろ姿は百合の花のように清楚で、そしてどことなく寂しい。
「母とふたりの暮しが仕合せ、結婚のことなんか考えたこともありません」と割り切っている所を見ると菜美子の寂しさのもとがそこにあるとは思えない。いつぞや
「蕪村の句には、とても惹かれるけど、イザという時はやはり芭蕉、ね。生き調子のいい時は蕪村の句、とても楽しいのよ。でも、何かあって目の前が暗くなった時なんか、蕪村なんか甘くてイライラしてくる。そんな時芭蕉は救いの手を差し出してくれます、ほんとの生活者というのかしら、求道者なんて言葉はイヤだけど」などと言ったことから考えて菜美子の日々の生活はなかなかに真面目であるらしい。まじめな生活者は何よりも生者必滅を知っており、おのずとその身辺に寂しさがただようものであります。菜美子にまつわる寂しさは恐らくそれでありましょう。
「おっしょさん、何か活けるものない」
 ある日菜美子は大きな声でそう言いながら上って来ました。
「みやこ忘れ買って来たのよ。きれいでしょ。あたし好きよ、みやこ忘れ」
 濃紫の小さな花をつけている可憐な二三本を手に菜美子は、いつもよりはしゃいで見えました。
「あたしネ、おっかさんと二人会するんです、いいでしょ」
「へえ、珍らしい、いつやるのさ」
 そこで菜美子は牡丹の如き笑みを浮べて番組の下書きを出して見せました。会場が当世流行の何々ホールでなく上野の韻松亭であることもこの親子らしいと納得が行きました。驚いたのはその出し物です。殆ど廃曲と思われている古曲の、しかも純新内端物ばかりを選んで四曲、それを親子ふたりきりで演奏するという組み立てで私は思わず腕を組み、呻り、しばし言葉がありません。

<当時の本牧亭

  ばんぐみ

 一 小七菊の井・浮名の初紋日   菜美
 二 花ぞの平三・血の抱柏     津賀吉
 三 哥菊惣五郎・二世の玉すだき  菜美
 四 花の井清七・浮世の別れ霜   津賀吉
 五 朝比奈地獄破り・ちゃりもの  津賀吉
                  菜美

「へえ、どうしたの、こんな古曲
 ようやく立ち直った私は驚きあきれた思いをこめて言いました。菜美子の話では祖母、つまり津賀吉の母が津賀八という江戸時代からの大師匠で、伝承の稽古本に新内には珍らしい朱の符が明細に記入してある。朱符そのものだけに頼ったのでは何が何やら見当が付かないけれど明烏や蘭蝶などのような現行曲に依って研究して行くと、どの朱符があのフシで、どの朱符がこのフシと分ってくる。そのように調査整理した朱符を廃曲の朱符と照らし合わせて行くとおのずから廃曲のフシの組み立てが分解されてくる――成程、それはその通りでしょう。そのようにして津賀吉は黙々として古曲の再生に精根を傾け、数年前から菜美子も力を合わせ、面白くて楽しくて、或いは夜を更かし、或いはに起き出して、そしてく今度の小会になったのだと言う。番組にはそれらの苦心に就いて一言も述べてない。
「だって、誰に頼まれたわけでもなし、私たち好きでやっただけのことですもの、吹聴することないでしょ」
「おしまいにチャリモノは面白いネ、これ掛合でやるの、菜美ちゃんのチャリモノ大丈夫かな」
「チャリモノだって、私自身がチャリになることじゃないでしょ、チャリモノをまじめに語り生かすことでしょ、出来るわヨ」
「うん、チャリモノを演奏する太夫さん自身が悪ふざけしちゃってネ、それがチャリ語りの本分のように思い違えてるのがある」
「それから私ネ、芸の根本精神はやはりあそびだと思うのヨ、理屈一ぺんとうになったら芸の味は死んじまうように思うの、あまり理智的な、写実過ぎた芸は聴いてて肩が張って楽しくない気がするの、どうでしょう」
「ああ、同感だネ」
「新内の心中物も今は昔の夢物語でしょう、夢の如くに語りたいの、世間を気にしたり、現代人の思惑を気にしたりしないで――」
「同感だがネ、それが出来るようになれば達人だよ」
「同感でありながら出来ないとすれば、まだ欲があるんでしょ、色けもあるのネ」
「痛いところを突きなさンな」
「御めん々々。それにしても、ああ、何かしら抜けたような、梅の花がどこから匂ってくるか分からないような芸をやりたい」
「それは私の言いたいセリフだ」
「新邦楽やお琴の新曲ネ、あの早マの複雑な作曲の演奏、とても感動するんだけど、その感動が、達人がタイプライターたたく、名手そろばんはじく、その感動と混乱しちまうのよ、芸の味ではなくて技術、事務のうまさの感動――自分が古くてつかめないからと思うのだけれど私はそれでいいと思うの。何もかも分る必要ないと思う。私は私の世界で勉強する。とても小さくて、目に付かない世界よ。みやこ忘れのような」
「ひとりしずかの花のような、ともネ」
 読者はニヤニヤ笑いながら私が菜美子といい仲になり――などと例に依ってひとりよがりの筋を立ててヤニさがるものと想像されていたでしょうが、御安心ください、このたびは会の当日受付に坐って「名もなく貧しく美しい」親子のため来会者の接待に微力をささげたいと思うばかりでありますから。

(三月書房『芸渡世』より 初版 昭和三七年 一九六二年)

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いよいよ東京での演奏と夜話会です。桃山の話しは夜話会で音とともに・・・。席があるかないかわかりませんが、ホームページをご覧のうえお越し下さい。