桃山晴衣の音の足跡(7)岡本文弥と「菜美子のこと」

 「かつて「思想の科学」という雑誌があった。そこには当代の芸術家、批評家、詩人などのうるさがたが、群雄割拠してはなばなしく論陣をはっていた。時代をリードする雑誌だったと言っていい。 その雑誌に拠る論客たちが、こぞって推挙するアーティストが、若き日の桃山晴衣さんだった。 小野十三郎秋山清添田知道、加多こうじ、そのほかの人びとに囲まれた桃山さんは、軽薄な言い方だが、当時の知識人のアイドルのような存在だったのである」と五木寛之の文にあるように、弱冠二十三才の女性邦楽家を上述のような論客たちが取り巻くようになったのは、「時代をリードする雑誌」とある「思想の科学」1963年2月号に安田武が「桃山晴慧論」を書いたのが発端だったと思う。おそらくはこの雑誌の読者は60年代のロックやジャズ、フォークといった、およそ日本音楽、いわゆる邦楽などとは疎遠ないわゆるダンカイの世代前後の若者たちだっただろうし、ましてや小唄を教える無名の女性にいかほどの関心が集まるだろうかと思うのだが、桃山の周辺は以来賑やかになっていき、「於晴会」もこうした流れとともに生まれていくのである。
 安田武はなぜ桃山晴慧のことをこの雑誌に取り上げたのだろうか。そのことを記したのが以下の一文である。

「ところで、桃山晴慧と私の数奇(?)なめぐり逢いについて書いておかなければならぬ。「思想の科学」の二月号が、「女の一生」という特集を企画し、現代に生きる女性の問題をテーマにするというので、私のところにも依頼があった。突嗟に、私の頭にヒラめいたのは、岡本文弥の『芸渡世』(三月書房)の中に出てくる「菜美子」という女性のことである。読んだ時から、妙に心にひかれた。一度、逢ってみたいな、と思っていた、その「菜美子」に逢って、彼女のことを書いてみようか。
 編集部の承諾を得て、岡本文弥に手紙を書いた。折り返し、速達の丁寧な返書があって、「菜美子」とは、文弥の創作、しかしモデルは名古屋に住む桃山晴慧とわかったのである。
 岡本文弥の筆先もミゴトであったと思うが、私自身の眼光も、まさに紙背に徹したというべきだろう。桃山晴慧は、予期した以上の才能であった。であったということを、これから報告する。それは、ただ二十三才の一人の少女の「才能」というだけのことではなかったからである」と、桃山晴慧論が書かれていくのであるが、この安田武を虜にした岡本文弥の「菜美子」とはどんな随筆だったのか。それを紹介する前に、まず岡本文弥その人の紹介から始めよう。

<岡本文弥師と菜美子こと桃山晴衣:新年会で>
 筆者の岡本文弥(本名井上猛一)は明治28(1895)年東京谷中の生まれ。若い時からお座敷や流しで新内節の演奏を続け、大正12年に中絶していた岡本派を再興、精力的な演奏活動をつうじて新内節の発展に貢献してき、平成8(1996)年10月6日に逝去。
新内節は江戸浄瑠璃の1つで、江戸時代の中ごろ宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が上方から江戸に伝えた浄瑠璃豊後節から派生した一派。「新内」の名は、宝暦から明和年間(1751〜1771)のころ人気のあった鶴賀新内名に由来する。江戸浄瑠璃には、主に歌舞伎の音曲として演奏されるものと座敷で演奏されるものがあり、常磐津節・富本節などが前者に、河東節・新内節、そして桃山晴衣の宮薗節もこの豊後系の浄瑠璃で音曲として独立したものである。新内節は心中物など男女の恋にからむ人情劇を題材にした抒情豊かな語りで人気を集め、座敷だけでなく2人1組で演奏しながら街を歩く「新内流し」も流行した。この新内節の流派の一つ、江戸時代後期に始った岡本派の流れをを岡本文弥は引き継いできたのである。若いころは小説家志望だったという文弥は雑誌の編集などにも携わっており、新内古典の伝承とともに二百五十を超える新作を発表し、第二次大戦中は、「西部戦線異常なし」「磔茂左衛門」「太陽のない街」「唐人お吉」など多くの左翼系作品も発表し、“赤い新内語り”と呼ばれ、お上からマークされたが、反骨精神をずっと貫いて活動を続けた。

 さてこの「菜美子」こと桃山晴衣岡本文弥についてこう書いている。
「若き日にプロレタリア新内など気を吐いた岡本文弥は、このころ自作自演の新作を発表したり、古曲の復元にも手を染めるなど、私のお手本になる存在でもあった。質実、無口なその向こうに、ほのぼのと人柄と風情を漂わせているこの人とも、上京のたびに会うのが楽しみで、私と二人連れ立って歩く様を、加太こうじが『週刊ポスト』に書いたことがある。岡本文弥は文章も、人柄をそのままあらわしたような独特の味わいに、ウィットのきいた素晴らしいものを書く。あるときこの筆致で随筆「菜美子のこと」(たしか「邦楽の友」に掲載された)を発表。これには私の父、鹿島大治もいたく惚れ込んですぐさま「菜美子さんにお会いしたい」と書き送った。すると「お嬢さんがモデルです」と返事があった。
 それからしばらく後、この随筆に触発されたかっこうの安田武が取材に来訪。「思想の科学」の特集に「桃山晴慧論」を発表した(英十三はこれを”桃山嬢訪問記”といったところで”論”になってない、と評していた)。『思想の科学』が昭和三十六年、天皇制の問題から中央公論を離れ、独立した直後であったとおもう」
桃山晴衣著『恋ひ恋ひて うた三絃』(筑摩書房

いよいよ菜美子という随筆が気になる所でしょうが、これは次回にて。