桃山晴衣の音の足跡 の検索結果:

立光学舎春季ライヴコンサートのお知らせ

… このところずっと「桃山晴衣の音の足跡」を連載していて、彼女が私と一緒になる以前の活動をいろいろ整理考察しているうちに、多くのことが見え始めてきています。ここ数回のブログでは桃山が十余年にわたって直接教わってきた演歌の創始者添田唖蝉坊の子息添田知道さんのことなども書いてきましたが、これを書いた直後に明治大正演歌を自分のニッポンの歌としてうたい続けているという岡大介という歌い手のことをしり、全国をながしてもいるようなので、どうせなら立光学舎でナマの声を聞いてみたいと、本演奏会の…

桃山晴衣の音の足跡(16)安政の大地震と清元お葉

…影が覆い続けている。桃山晴衣の音の足跡と題してこのブログを書いていても、ついつい地震のことが気がかりになってくる。そこで先に関東大震災と演歌師の添田知道氏のことを書いたが、今回も少し迂回し、江戸安政の大地震と清元お葉のことを書いてみようと思う。 桃山晴衣の父上、鹿島大治氏の音楽系譜とでもいうべきものを見てみると、大治氏の母親、鹿島万寿(ます)とその妹、とく子、そして叔父の吉住慈恭(四代目吉住小三郎)の名がみえる。大治氏の邦楽の基礎はこの人達から受け継がれており、氏の説明では、…

桃山晴衣の音の足跡(15)小唄とアナキズム/秋山清との出会い

…いう自作詞か?> 「桃山晴衣の音の足跡」の第一回目に桃山が自ら発刊してきた三つの機関紙のことを書いた。その一つ「桃之夭夭」は1975年から1985年の十年間にわたって発行された最初の機関紙で、75年に発行された第一号に、すでに秋山清氏の寄稿が掲載されている。「オンチの弁」と題した自称オンチの弁であるが、桃山は「秋山さんの”オンチの弁”などという言葉にまどわされませんように。秋山さんは知る人ぞ知る、素晴らしい声の持ち主です。少年のように凛とはった声音には一度聴くだけで惚れ込んで…

「桃山晴衣の音の足跡」番外篇 東北関東大震災に寄せて

…きない。 ちょうど「桃山晴衣の音の足跡」で書いてきた明治大正演歌の中に、まだ一世紀も経っていない88年前の関東大震災に自ら遭遇した添田知道氏が作った民衆歌があり、氏の著作『演歌の明治大正史』にその歌がいかに誕生したかが綴られているのに興味を持ったので、ここに紹介して話を進めたい。 「一団々々のうずくまりのつながり、その間を、散りぢりになった家族を探しもとめる声が縫い、名を記した布旗をもちまわる者がつづく。早くも排泄物の臭いが蔽う山となった。一望の焼土を見はるかしては、昨日まで…

桃山晴衣の音の足跡(14)明治大正演歌と添田知道(2)

「こないだはごちそうさま。いろいろ準備でたいへんのときと思うけど、もしそのなかでくり合わせがついたらとお伺い。荒畑寒村老の生誕会を毎年やっているのだが、世話人の、いつか行った巌嘯洞の平岩と近藤真柄、おんなビッコ隊、それがこっちへ出向いてくれての相談。八月十四日六時、有楽町の「大雁」で、八十七回の生誕会をやる。例年、林家正藏師匠と文弥、宮染が演奏してくれるのだが(文弥氏は大阪が主だからどういう都合になるかはっきりしない)。これに桃山晴衣に一枚加わってもらえるかどうか。薄謝はもち…

桃山晴衣の音の足跡(13) 明治大正演歌と添田知道

「古典と継承」シリーズで、桃山晴衣は「雪女」「婉という女」など語り物に挑戦した。それは明治以降、西洋音楽を尺度にするようになり、語り物が音楽ではないという風潮になってしまっているという疑問からの出立であった。うたが好きだった桃山は、常に自分が心からうたえるうたが無くなってしまっているといっていたが、その一因に、うたの内容やうたそのものよりも、西洋音楽のハーモニーやリズムによる作曲や様々な楽器による技巧・装飾的音楽要素の方が強調されるようになり、本来日本のうたが持っていた語り的…

桃山晴衣の音の足跡(12)子守唄

わらべうたと同様に、桃山晴衣が非常な関心をもっていたうたが子守唄である。わらべうたは男女ともにうたう子どものうたであるが、子守唄は子守りをする守り子や母親、つまり女性のみがうたった特有の唄であるということも、彼女にとってより魅力だったにちがいない。また、わらべうたと子守唄のうたそのものは、はっきりと分けられるものでなく、ときにわらべうただったものが子守唄になったり、その逆もありえるし、民謡なども両方のうたに入り交じることもある。まさに小泉文夫氏が「わらべうたにも、ちゃんとした…

桃山晴衣の音の足跡(11) わらべうた

小泉文夫氏の『おたまじゃくし無用論』は日本の音楽教育批判とその変革についての書であるが、氏は幼年期ないし子供時代の音楽体験が非常にに大切で、”わらべうた”こそを音楽教育の根幹に据えるべきだと一貫して主張してきた。20年以上におよぶわらべうたの調査で、「わらべうたにも、ちゃんとした音階やリズムの法則があり、それがおとなの民謡や芸術的に発達した邦楽にもつながっている」ことを確認し、日本のこどもたちが自然のうちに日本語のアクセントやイントネーションとよく合ったメロディーや身体リズム…

桃山晴衣の音の足跡(10) 桃山晴衣と小泉文夫

…トにも述べている。(桃山晴衣の音の足跡を始めるにあたってのブログで) さらに桃山はこの「模倣」ということに関しては、今の日本の音楽と呼ばれているものの大半、特に60年代以降の庶民の伝統音楽と呼ばれるものが、悪しき模倣によって崩れ去っていることを常に警告してもいた。まさにフォークソングである民謡や小唄、都々逸といった庶民が自由に歌って来た歌、さらには歌謡曲までもが、それぞれ家元を立ち上げ一人の歌手の模倣を続け出しているのである。全国民謡大会やのぞ自慢の類いに見られる技術競争と模…

桃山晴衣の音の足跡(9) 小泉文夫著『おたまじゃくし無用論』

25日は昨日の演奏会とはうってかわった内容のレクチャー「桃山晴衣と日本音楽」を吉祥寺のサウンドカフェdzumiで持った。ここは少々日本音楽とはほど遠い欧米のフリー・インプロヴィゼーションやフリージャズなどをハイパーサウンドシステムで聞かせるこだわりのサロン風カフェである。店主の泉さんは私や桃山晴衣がよく出演していた池袋のスタジオ200や六本木のWAVEなど、西武、セゾン系の文化グループで仕事をしていた人で、桃山晴衣の音楽をアルバート・アイラーやオーネット・コールマンなどと同じ…

桃山晴衣の音の足跡(8) 岡本文弥と菜美子、その二

「菜美子のこと」は今の文庫本の大きさのしゃれた箱入り単行本「芸渡世」に掲載され、その後版を重ねているが、そのたびごとに箱も本もデザインが異なり、一冊目にはなかった菜美子の写真が三冊目には登場して来る。岡本文弥師はほとんどの自著をほのぼのとした絵入りサインを添えて桃山に贈呈してくれていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「菜美子のこと」岡本文弥 小島菜美子と私が親しく付き合うようになったのは近頃のことであります。私の年齢から言えば本当は菜美子の母親で…

桃山晴衣の音の足跡(7)岡本文弥と「菜美子のこと」

「かつて「思想の科学」という雑誌があった。そこには当代の芸術家、批評家、詩人などのうるさがたが、群雄割拠してはなばなしく論陣をはっていた。時代をリードする雑誌だったと言っていい。 その雑誌に拠る論客たちが、こぞって推挙するアーティストが、若き日の桃山晴衣さんだった。 小野十三郎、秋山清、添田知道、加多こうじ、そのほかの人びとに囲まれた桃山さんは、軽薄な言い方だが、当時の知識人のアイドルのような存在だったのである」と五木寛之の文にあるように、弱冠二十三才の女性邦楽家を上述のよう…

桃山晴衣の音の足跡(6) 語りと現代文学

74年から75年にかけ、三回にわたって催した「古典と継承」で、桃山晴衣は多様な試みをしている。第一回はゲストに平曲の井野川幸次検校を招き、三味線で地唄「高雄山」を演奏していただき、自らの演奏で三味線復元曲、江戸小唄、そして新たに作詞・作曲した小唄を発表。二回目の会では、先に紹介した落語家の桂小文枝をゲストに「雪女」を。そして三回目の会では「桃山晴衣・女をうたう」と題して、桃山の宮薗節「桂川恋の柵」とゲスト岡本文弥の新内「桂川恋散柳」という同じテーマの浄瑠璃を異なる流派の演奏で…

桃山晴衣の音の足跡(5)語り物と落語

「古典と継承」シリーズを開催した74~75年にかけて桃山晴衣は多くの落語家と出会っている。中でもよくコラボレーションを行ったのが当時の三代目桂小文枝(後、五代目桂文枝)。73年頃、当代随一といわれたハメモノ入りの噺の一つ「立切れ」に、氏が普通は寄席の下座が演じる唄・三味線を桃山晴衣に依頼したのが始まりだったという。 <桃山がハメモノで出演した「立切れ」を収録した桂小文枝(五代目桂文枝)落語集(二)> この出し物に何度か出演するうち、今度は桃山の方が新たに創作した「雪女」の語り…

桃山晴衣の音の足跡(4)語りもの

桃山晴衣が父、鹿島大治氏の後見で桃山流を名のっていた頃は小唄、端唄、そして三味線の古譜解読による復元曲などがレパートリーの中心となっていたことを先に述べた。この頃は父上の意向が大きく作用していた時でもあったが、60年代中頃に四世宮薗千寿師の内弟子として一人上京したのを機に、自身の音楽活動も真剣に考えるようになった彼女は、秋山清、添田知道、加太こうじ、安田武など、若輩の桃山とはおよそ繋がりの想像できない思想家や文化人たちをご意見番として「於晴会」と称する集いを定期的に開き、日本…

桃山晴衣の音の足跡(3)

先に鹿島大治氏の復元曲について記したが、これら復元曲の中でもずっと手つかずのままにあった古態どどいつといわれる「神戸節」が氏によって復元されたことはあまり知られていない。この「神戸節」について大治氏自身が桃山の機関誌「桃之夭々」に少し説明しているので掲げておこう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 神戸節(ごうどぶし) 鹿島大治神戸節は享和二年(1802年)頃、熱田の宮の宿の花街の一つ、神戸(ごうど)で創唱された古態「どどいつ」であ…

桃山晴衣の音の足跡(2)

昨日は彼女が書き残してきた貴重な文章が集積されているいくつかの機関誌について少し紹介してきたが、この機関誌には桃山自身の他にも多くの貴重な人たちが執筆したり、インタビューに答えたりしている。今日はその中から復元曲に関するものを取り上げてみたい。桃山は19才の頃から、父、鹿島大治氏の後見で桃山流の家元として多くの人たちにうたや三味線を教え始めている。そして22才の1961年5月26日に、桃山流創立記念演奏会として、愛知文化講堂で1700人を収容する初めての大演奏会を催す。この時…

桃山晴衣の音の足跡(1)

今年の一月は寒さが一段と厳しかった。雪が降っては積もり、凍っては融けてと、幾度も同じ現象がくりかえされ、いまに至っている。こんな寒さの中ではコンピューターも冷えきってしまい、ワープロを打つ手もかじかんでしまうためブログもついつい先延ばしになってしまう。 前回のブログで書いたように、今年は、昨年、外国にいて出来なかった桃山晴衣の残した多くの書き物や音源の整理を続け、何らかの形で残していきたいと思っている。彼女の足跡を辿ることは日本音楽の歴史を辿ることでもあり、明治、大正、昭和、…