桃山晴衣の音の足跡 の検索結果:

桃山晴衣の音の足跡(40)  ハムザ・エルディーンとの出会い

桃山晴衣とハムザ・エルディーン:スタジオ200> 桃山晴衣が1980年の9月を機に自ら働きかけ、自らの足で出かけ唄い続けた「梁塵秘抄ツアー」はひとまず一年半で区切りをつけた。「いくら書いても書き尽くすことのできない、清々しい想い出と感激的な交流。そこから派生した創造的な出会いを残して・・・。まだ未整理の状態でハッキリと掴めていたわけではなかったが、私はそれらの人々のすべてから、確かな手応えをもらったような気がしていた」と記すこの自主自営コンサートは、これから音楽活動を進めて行…

「炎夏」の「演歌」/ 郡上・立光学舎での「うた塾」とコンサート

…いてはこのブログの「桃山晴衣の音の足跡」で述べているので参照していただくとして、これを機に彼女はこれまでの古典や邦楽を基に、現代の若者にも響き合える独自の唄を作って唄い語る様になり、「婉という女」のような長編現代語かたりや「梁塵秘抄」のような短い唄をオリジナル作品とし、世に問うていった。そして桃山が最も意識していたのが、生活、しかも庶民の生活から生まれでる流行歌(はやりうた)の存在だった。そして近代流行歌の源流ともいえる明治大正演歌を、それまでご意見番としてお付き合いいただい…

桃山晴衣の音の足跡(39)「梁塵秘抄」(其の七)最初と最後の作曲

桃山晴衣は2008年12月に逝去する前年に、ずっと書き続けていた梁塵秘抄に関する文章を「梁塵秘抄・うたの旅」(青土社)として上梓した。この頃は再び梁塵秘抄の作曲にも着手していて念願の足柄でのコンサートも夢見ていた。新曲を発表しながらこれから百コンサートと題して全国を唄って旅する予定だった。しかしこの夢は肉体的に叶わぬことになり、2007年11月24日の南宮大社での「梁塵秘抄うたの旅」出版記念コンサートが最後の演奏会となってしまった。その出版記念会の冒頭で彼女は梁塵秘抄の「滝は…

邦楽番外地・明治大正演歌プロジェクトへ向けて

…る工夫もみられる。「桃山晴衣の音の足跡」によって彼女の音の足跡が段々と明らかになっていただけたと思うが、子供のときから父上、鹿島大治氏の後見で長唄、小唄、端唄、復元古曲などをレパートリーに桃山流を立ち上げ、そのまま家元に収まることもせず、さらに語り物・浄瑠璃を極めるために四世・宮薗千寿師の内弟子となって奥義修得し、それでもそこにとどまることを良しとしなかった彼女であるが、このような江戸や上方の邦楽とよばれていたような三味線音曲の高度な技を身につけた彼女をさらに民衆の流行歌とい…

桃山晴衣の音の足跡(38)「梁塵秘抄の世界」其の六

「「梁塵秘抄」は、日本芸能にずっとたずさわってきた私が、江戸からこっちにあきたらなくて探し続けていた世界をバッチリと持っていた。これは現代にも古いものをよみがえらせる、なんてものではなく、現代へのメッセージだ。”古典、むつかしいもの”教育の弊害によるこんな常識はクソくらえ。私にわかるものがみんなにわからないはずがないじゃないか。私はこの梁塵秘抄を、やはり堅苦しくむずかしいと思われている三味線一梃手にして、なんでもなく当たり前にうたって歩こう、そう思った。」 <梁塵秘抄コンサー…

桃山晴衣の音の足跡(37) 梁塵秘抄(番外編)美濃青墓再訪問

3月18日、彼岸の入りのこの日、先々月から開始した立光学舎「いろりわの会」のプログラムとして計画していた美濃青墓に「梁塵秘抄」の史跡を訪ねた。実はこの日、大垣市の青墓だけでなく関市の新長谷寺で年に一度だけの貴重な念持仏御開帳があるとのことで、この日に合わせて予定を組んでいたのだが、この御開帳が中止になったと知り、青墓だけに的を絞ることになった。この新長谷寺の念持仏というのは、桃山が最も関心を寄せていた「梁塵秘抄」の伝承者でもあった青墓の長者・延寿と深く繋がりのあるもので、もと…

桃山晴衣の音の足跡(36 )『梁塵秘抄』の世界 其の五

NHK大河ドラマ「平清盛」の影響か、桃山晴衣の「梁塵秘抄」とりわけ「遊びをせんとや生まれけん」が大いに注目されている。youtubeではこの曲を以前から流していたが、カウントが一年で2000にも満たなかったものが、この三週間程で9000を超えている。NHKの影響の大きさを知らされる一幕だが、私はこのドラマを拝見していない。桃山の「遊びをせんとや・・」に耳を傾けてくれる人がどんな人たちかは知るすべもないが、願わくば今は亡き彼女のCD「梁塵秘抄の世界」を入手し、ライフワークとした…

桃山晴衣の音の足跡(35)『梁塵秘抄』の世界 其の四

「中世の激動期に完成された『梁塵秘抄』」 「梁塵秘抄が」誕生したのはいつ頃で、その背景はどのようなものだったのか。桃山の著書「梁塵秘抄・うたの旅」を参考に概説してみよう。桃山は「後白河院の祈念と企て」と題する章で、まず「何かに憑かれたとしかいいようのない」全二十巻もの「梁塵秘抄」を編纂した後白河院についての疑問を投げかけている。「梁塵秘抄」は素晴らしい、大事業であることは間違いないとしながらも、彼女は音楽家としての視点でみると、そこには何か釈然としないズレを感じるものがあると…

桃山晴衣の音の足跡(34)『梁塵秘抄』の世界 其の三

ここで『梁塵秘抄』について簡単な説明をしておこう。 『梁塵秘抄』は平安末期に大衆の間に最も広く流行した歌謡、「今様」が、後白河法皇によって集大成された歌謡集である。明治44年和田英松博士の尽力でその一部が発見され、翌大正元年佐々木信綱の手により単行本として世に出た。本来は歌詞編十巻、口伝集十巻、計二十巻の大歌謡集成であったらしいが、現存するのは口伝集巻第一の断簡と同巻第十で、歌詞集は第一巻の断簡と巻第二があるのみ。このように見つかったものは少ないのだが、それでも歌詞篇は巻一に…

桃山晴衣の音の足跡(33)「梁塵秘抄」の世界/其の二

「裏の雑木林を風が吹きわたる葉ずれの音を、驟雨と聴き紛うことがある。逆に大粒の雨の降り出しを風と聴き違えることもある。一陣の天意にふりはらわれて地面に滲みる幾百万の雨滴。わくら葉のひそやかな離脱・・・・」 先に桃山晴衣が75年から80年にかけて尋常とは思えない程の創造活動に没頭し、とりわけ長編現代語のかたり「婉という女」の作曲、演奏では精神力・体力ともにぎりぎりの状態で取り組んだために、膵臓病という病魔に突然襲われ生死を彷徨うことになったことを述べた。幼少からの長い邦楽修行期…

桃山晴衣の音の足跡(32)「梁塵秘抄」の世界/其の一

『遊びをせんとや生まれけん〈梁塵秘抄の世界〉』(VIH28036)は、歴史の奥深く沈んだ民衆の歌を現代に甦らせようとの大胆な試み。桃山晴衣は創造力の一切を賭け当時の音曲を復元し、その上で現代人の感覚と交錯させることに成功した。作曲、三味線、唄の三役をこなし、胡弓、笙、楽琵琶など他のミュージシャンの協力も得て、中世の素朴な庶民の哀感を切々と歌い上げる。この時代、外に目を向ければ中世の世俗歌謡を集めた『カルミナ・ブラーナ』がある。 オルフの創作盤とクレマンシックの復元再構成盤とが…

桃山晴衣の音の足跡(31)辰年に「夜叉姫」

昨年書き続けてきた「桃山晴衣の音の足跡」が、宮薗修業時代のところから休筆状態になってしまっていたが、その続編を今年の干支、龍年にちなんだ話とからめてスタートしてゆきたい。龍は世界各地の古代神話に登場するが、日本でも出雲の八俣の大蛇神話に語られ、銅鏡をはじめとする弥生時代の青銅器にイコンとして刻まれていたりと、その歴史は古い(もちろん縄文土器の文様に蛇のイコンを刻み込んだものも多くある)。龍とよばれるものは、中国に端を発するとされる鱗のある長い胴に尖った爪を持つ四つ足を有し、顔…

桃山晴衣の音の足跡(30)/「生成消滅」に託されたメッセージ

<生成消滅/桃山晴衣&MOMO> 今日、12月5日は2008年に昇天した桃山晴衣の命日である。彼女が亡くなってからというもの、深い悲しみにつつまれ、心も体も凍てつき、長い闇を彷徨い続けてきたが、この間彼女を暖かく見守り続けてくれた全国の人たちの事を思い、翌年2009年にはなんとか多くの人のご協力を得て東京で「桃山晴衣を偲ぶ会」を催すことができた。 桃山が残していた幻のバンドMOMOの録音テープと歌詞を書いた紙が見つかったのは、この「偲ぶ会」で流す為の音源を探そうとしていた時だ…

馬喰町ART+EAT「明治大正演歌」を語り、唄った二日間

…日このブログ連載の「桃山晴衣の音の足跡」に譲ることにしよう。 一日目の会で私が演奏したかった曲に添田唖蝉坊の「ああ踏切番」がある。大正八年の作で下層労働者であった踏切番の悲劇を演歌にした添田唖蝉坊の名曲でもある。 「大正七年五月十九日午前一時五分、汐留発の下関行き貨物列車が品川駅を出て八丁余の碑文谷で折悪しく踏切にかかった人力車を突っかけて粉砕。車夫は助かったものの乗客の新井某は重傷で絶命した。踏切番がつい居眠りをした魔の瞬間だった。同午前二時この踏切番竹内芳松、須山由五郎の…

土取利行の音楽夜会「日本のうたよどこいった」

…ては、このブログの「桃山晴衣の音の足跡」(13)と(14)で紹介してきたので参照して頂くとして、実は今月11月25日(金)と26日(土)の二日にわたって私の初めての演歌の会が催されるのでお知らせします。 この突拍子もないコンサート開催の理由の一つは、連載中の「桃山晴衣の音の足跡」に書いているように、伴侶であった彼女が昇天してから多くの資料を整理する中、明治大正演歌に関しても貴重な資料や録音が残されており、微力ながらそれを学び継ぎたいという思いにかられたことと、桃山自身が演歌創…

桃山晴衣の音の足跡(29)具わる年令を超えた芸格

…グやyoutubeで桃山晴衣の音の足跡を発表することになったのは、三年前に彼女が夭折してから遺した物を整理しているうちに、私の知らなかった邦楽に関する書き物や父、鹿島大治氏との時代の音楽記録など、あまりにも貴重なものが山積みされていて、事実今は私自身が勉強させてもらうつもりでこれらを更新し続けている。 音楽を文章で書くことがどれほど困難なことか。そしてどれほど巧みに書かれた文章であれ、そこから音を汲み取ることがいかに難しいことであるか。おそらく安田武氏が「演奏者が、二十三歳の…

桃山晴衣の音の足跡(28) 幻の古曲、宮薗節(七)

<宮薗節の面影を残す桃山の弾き唄い/たもと> これまで述べてきたように、宮薗節は宮古路豊後掾の門人であった宮古路薗八が亨保年間(1716〜1735年)の末に興した豊後系浄瑠璃の一つであり、特に日本が明治維新での西洋化、世界大戦への参戦などで、伝統的な歌舞音曲が排斥され、一般の耳から遠ざけられていく中、およそ300年にわたってこの音曲が紆余曲折を経ながらも、現在まで伝えられてきたことはまことに奇跡的というほかない。 前に紹介した中興の祖といわれる山城屋清八(初代宮薗千之)が文政…

桃山晴衣の音の足跡(27) 幻の古曲、宮薗節(六)

千寿師匠の思い出と死 <桃山晴衣筆、宮薗節:鳥辺山台本:細部にわたって唄と糸の節回しなどが鉛筆でマークされている> 内弟子時代、桃山晴衣は千寿師匠とよく旅をした。箱根千石原の俵石閣で開かれるおさらい会は、毎年銀座のガスホールで開かれていた千寿会同様に大切な会で、ここには千寿師匠の近しい人や宮薗の師匠級の人達が馳せ参じるため、桃山の緊張度もより高まらざるを得ない。彼女は会場の用意から、旅館での食事の献立、参加人数、飲み物、値段の確認はもとより、一国一城の主たちが勝手な注文を次々…

桃山晴衣の音の足跡(26)幻の古曲、宮薗節(五)

桃山晴衣の師、四世宮薗千寿(人間国宝)は本名を水野ハツといい、1899年明治32年9月10日、東京神田生まれ、生粋の江戸っ子である。 桃山の話では「四十歳過ぎた母親に生まれた、俗にいう恥かきっ子の師匠は、幼児の頃からのキカン気に芸事が大好きで、自分から行きたくて行きたくて、芸者屋の子飼になり、母親代わりに親身に世話をしてくれた年の離れた姉さんが、その芸者屋のまわりを心配してウロウロするのに、当人はてんで平気で、一途に芸事に没頭していった」という。柳橋の芸者時代の名は金弥、その…

友来たり、精霊来たる郡上踊りの夏

…上での活動はいずれ「桃山晴衣の音の足跡」でも触れることにする。 <1986年の徹夜踊り、久しぶりに朝5時まで復活した:郷土文化誌郡上より> 夜が消えかけると 踊りは 陶酔を求めていやが上にも高まる 東殿山が白み始め 音頭がひと際哀愁を帯びるとき それを支えて 下駄の音は一つに揃う 見知りの顔が あちらこちらに浮かび 交わす微笑を川風が揺らすのもこの時 それを合図に 鳩が飛び立つ さわやかに郡上文学者/高田英太郎・・・・・・・・・・・・・・・ 今年は徹夜踊りの期間に、ダンサーや…

桃山晴衣の音の足跡(25)幻の古曲、宮薗節(四)

四世宮薗千寿師と桃山晴衣 先述のように、桃山晴衣は宮薗節と深く関わってきた家系の中で育ってきた。宮薗節中興の祖といわれる山城屋清八(初世宮薗千之)の二人の女流門弟、小川さな(二世千之)、梅田たづ(初世宮薗千寿)のうち前者、小川さな(二世千之)に師事し三世千之の襲名を受けたが若くして夭逝した大叔母のとく子、宮薗千林を襲名した祖母の万寿、そしてこの二人から教わっていた父の鹿島大治と、桃山はこれら千之派の流れを汲む宮薗の調べに幼少から馴染んでいた。また十代の頃、父、大治氏が当時では…

桃山晴衣の音の足跡(24)幻の古曲、宮薗節(三)

けっして順風満帆とはいえない宮薗節の伝承であるが、ここで桃山晴衣の父、鹿島大治氏の宮薗節に関する興味深い文章を紹介しておく。 これは昭和36年の「邦楽の友」に連載していた『芸道牛涎録』と題する随筆に書かれたもので、彼が出会った明治、大正、昭和の人物の中に、不世出の宮薗節の名手のことが書かれている。 全文は長くなるので要約するが、まず彼自身の生いたちに始まっている。 「丁度、日露戦争の前年、九代目団十郎と五代目菊五郎の逝くなった年(註:九代目団十郎は九月十三日、五代目は二月十八…

桃山晴衣の音の足跡(23)幻の古曲、宮薗節(二)

さて、町田嘉章氏の「宮薗節の起こりとその伝承」を参考に、明治から現代にいたる宮薗節後継者の流れを見てみると、先の二人の名取り小川さな(二世宮薗千之)、梅田たづ(二世宮薗千寿)は、明治二十一年年十二月に宮薗清八こと宇治里清三郎の頭取のもと、技芸指導の取締として当たり、大槻如電もこれを援助した(後には小川さな、二世千之だけが取締となってしまう)。 <宮薗節中興の祖、山城屋清八こと初代宮薗千之/鹿島大治氏の「芸道牛涎録」に発表された貴重な写真> この頃から宮薗節への興味を持つ者も増…

桃山晴衣の音の足跡(22)幻の古曲、宮薗節(一)

桃山晴衣の音楽には、古曲宮薗節の伝統が秘められている。かつて永井荷風が『雨瀟瀟』で、「浄瑠璃も諸流の中で最もしめやかな薗八節に越すものはない。薗八節の凄艶にして古雅な曲調には夢の中に浮世絵美女の私語(ささやき)を聞くような趣がある」と讃した薗八節こそがこの宮薗節であり、今は幻の古曲とよばれるにいたっている浄瑠璃の一流である。 <桃山晴衣の貴重な記録:宮薗節/夕霧より:宮薗節は普通浄瑠璃方と三味線方の二人ないし複奏で演じられるが、桃山は一人で三味線と浄瑠璃の弾き語りをしている。…

桃山晴衣の音の足跡(21) 父との決別

桃山晴衣の『恋ひ恋ひて・うた三絃』は、彼女が私と出あうまでの半生記を書いたもので、その自叙伝は父、鹿島大治氏の影が大きく横たわっている。明治36年東京生まれの鹿島大治氏は父に鹿島清三郎、“写真大尽”とよばれた鹿島清兵衛の実弟を。清三郎は六年間にわたって英仏で写真技術を研究し、兄と玄鹿館と称する写真館を開業した他、木炭車の開発に従事し、その燃料ともなるニセアカシア樹の研究も手掛けるなど科学にも長けた人だった。 鹿島大治氏の叔父鹿島清兵衛(左)と父鹿島清三郎(右)> この父の影響…

桃山晴衣の音の足跡(20) 英十三(はなぶさ・じゅうざ)氏の手紙

桃山晴衣が大事に残していた英十三(本名田中治之助)氏の手紙がある。英十三氏については先の小唄の解説のところでも少し紹介したが、自らも吉田草紙庵らと組んでいくつもの小唄の作詞も手掛けている、明治生まれの邦楽評論家、著作家である。手紙の大半は1961年から63年にかけてのもので、桃山が添田知道氏や秋山清らと親交を結びはじめるわずか前の頃である。いわば於晴会以前のご意見番となった人だ。 『恋ひ恋ひて・うた三絃』で、桃山が人生の師匠と呼んでいるこの人との出会いは、彼女が鹿島大治氏の後…

桃山晴衣の音の足跡(19)1960年代から70年代の日本音楽迷走期

「晴衣さんを見ているとパリのシャンソンと江戸の小唄の似ているところがわかるような気がする。もっともシャンソンは叙事的なものが多く小唄は情緒的だが・・・。どこの国でも同じようだが、唄はふたつの大きな流れを持っている。文学としての歌詞による区別だが日本でも叙事詩としての謡曲、琵琶唄、浄瑠璃、浪花節、民謡中の音頭などと、叙情詩としての長唄、端唄、小唄、民謡中の佐渡おけさのようなものなどである。小唄は徳川時代の中期以後に大都会の町人の中で形作られ大正デモクラシーの時代に今日ある諸派の…

立光学舎ライブコンサート 岡大介の明治大正演歌

… 明治大正演歌は、「桃山晴衣の音の足跡」でも書いたように、演歌二代といわれる添田親子、すなわち添田唖蝉坊と息子の添田知道によって日本人の心に深く浸透してきた民衆歌である。桃山はその添田知道氏に二十年近く自分の音楽活動のご意見番となってもらっていたほか、添田氏から長年にわたって演歌の指導を受けて来た。古曲宮薗節を修めた桃山が演歌というのも意外に思われるかもしれないが、彼女にとって江戸時代から現代にいたるまでの民衆の流行歌謡のメインストリームといえる小唄と演歌は、自分の音楽世界に…

桃山晴衣の音の足跡(18)唄と浄瑠璃

「桃山晴衣の音の足跡」として筆を進めているうちに、関東東北津波大地震になり、被災地と原発危機の情報ばかりが耳目を覆うようになってしまっている。TVはほとんどNHKのニュースしかみていないのだが、それでもここ数週間、タレントや音楽家の被災地訪問や被災者支援と銘打ったコンサートなどを次々と目にするにつれ、こうした行為の是非はともかく、そこに流れ、うたわれている音楽やうたを聞いていて、考えさせられることが実に多い。ここでは桃山の音楽の話しをすすめなければならないので、そのことについ…

桃山晴衣の音の足跡(17)小唄の流れ

ぐずぐずと 泣きごと云うなよ 命があらば 復興するのも うでひとつ これは関東大震災のときにうたわれたという「復興節」の歌詞。先に演歌の「復興節」を紹介したが、この同名のうたは小唄である。 小唄で大震災の唄がうたわれていたとは思いもよらなかったが、この唄は桃山晴衣のご意見番であった英十三氏が磯辺東籬氏と監修した『草紙庵の小唄 解説集』(江戸小唄社)に紹介されている。 <吉田草紙庵> 草紙庵とは吉田草紙庵(1875年〜1946年)のことで、大正から昭和にかけて活躍した小唄作曲者…